のばらの子どもたちact 013

 しばらくすると、雨がふりはじめた。辺りがけぶるような霧雨で、そこにいた人々はそれぞれ紳士や淑女らしさを失わない程度の早足で墓地から去っていった。それでも菊はロダンの精巧な彫像のようにうずくまりそこから離れなかった。

 彼のベージュのコートがすっかり濃茶色に変わったころ、墓地の向こうから菊より少し背の低い影が走ってきた。

 影は全力で墓地を横切り、数度辺りを見回すように首を振ったが、一瞬のうちにブナの木の下でうずくまる菊を見つけ出した。彼は紺色のコウモリ傘をさしかけ、木から滴る水粒から菊を守った。

「この国の連中はクソだ! ぬれ鼠になって鼻水垂らすのがイけてるとでも思ってんのか!? たった傘一本買うのにおれ様を四軒も駆けずり回らせやがって!」

 返事はなかった。菊はまるでギルベルトのことなど眼中にないように墓地に目を向けていた。

 ギルベルトは傷ついたように菊を見つめたが、彼の身体がびしょぬれなことに気づくと自分のジャケットを脱ぎ菊の身体にかけてやった。そして彼の身体が冷え切っていたので、菊の手を取り息を吹きかけ何度もその手を擦った。

「私と一緒にいたら、彼は不幸になるのでしょうか」

 ギルベルトが菊の手を自分の頬に当てていると、疲れ切った顔で彼が呟いた。

「確かに、この国で外国人がなんの縛りもなく暮らしていくのは難しいでしょう。それでも私はここでやっていく自信があったんです。でも――」
「ムッターもファーターもいないが、おれ様は毎日超シアワセだぜ。ジジイがいるからな」
「アーサーくんには新しいご両親がいたほうがよいのでしょうか? 一緒にいるだけが愛ではない? わかりません。もう、なにもかもがわからないのです」

 ギルベルトは途方に暮れた顔で菊を抱きしめた。いままで彼は菊をいじめる全てから菊を守るつもりだった。しかし、いま菊をいじめるのは彼がなにより大切な菊の心にすんでいるのだ。

 アーサーをコマ切れにして湖の魚に食わせれば済む問題ではなく、そうすればよりいっそう菊が傷つくだろうことも彼にはわかっていた。ギルベルトはがん是ない子どものように地団太を踏みたくなった。なにもかもが彼の思い通りにならないからだ。

 ギルベルトは地団太を踏む代わり、いっそうきつく菊を抱きしめた。そのとき、ギルベルトは驚いて目を丸くした。菊の身体が昔感じたよりも小さく思えた。

 それに、真っ赤な顔で泣く――そう! 驚くべきことに菊は泣いていた――菊には彼のマリア、親鳥、おおらかな庇護者の面影はなかった。いるのは巣から落ちて親鳥を探すヒナのように弱々しい青年だった。

「泣くなよ、キク。泣かないでくれ」
「アーサーくんのために、どう償えばいいのでしょう。どうするのが真の愛なのでしょうね」

 菊は決してギルベルトを見なかったが、ギルベルトは必死に傷つかないよう努力した。菊は彼のマリアではなく、ただの人間だった。

 しかし、その気づきは菊を慕う気持ちを損なうものでは全くない。むしろギルベルト自身でさえ自分のなかに認められない性質の感情が生まれはじめていた。

 雨がどんどんはげしくなり、ねずみ色のジャケットが真っ黒にそまっても、ギルベルトは菊を離さなかった。大切な番いを守るタカのようにずっと暗い墓地をにらみつけていた。


 菊はポケットからアメの包装紙を取り出した。アルフレッドの明るい笑顔を思い出すと迷いが消え、頭のすみに未練がましくよぎる愚かな企みも振り払うことができた。

 あの事件さえなければ、菊は教師として彼と節度を保った関係を築けていたはずだ。しかし、偶然にもアーサーの背中を押した日、母親が自殺しアーサーの心は粉みじんに砕けてしまった。同時に彼の心を思いやった菊も罪の意識と重い責任に押しつぶされる寸前だった。

 誰が見てもいまの菊はアーサーのことしか考えていなかったが、当のアーサーだけはそのことに気づいていなかった。彼は菊が離れていきそうなことに大きなフラストレーションを抱えていた。

「すみません。貴方を助けるどころか、私は苦しめた。本当にお詫びのしようがありません」
「なら、連れてってくれ」

 菊は苦しげな顔をしたが、すぐやわらかい笑みを浮かべた。

「困りましたねえ。うちの車は狭いのです。ご存じでしょう」
「じゃ、ギルベルトは置いてけ」
「彼も連れて行ってください。私の大切な家族です。それに、貴方をさらったら世界中から追手が来るでしょうから、しばらくデリバリーの毎日でしょうね」
「いいぜ。おれはデリに慣れてるからな。それに、あいつだって文句を言いつつ食べるだろ。お前には逆らえないから」
「まあ。では、貴方はそこそこ幸せということですか?」
「そうだな。アパートの狭さとうっとうしいギルベルト以外の生活にはおおむね満足してる」
「……私もギルベルトくんの几帳面さと貴方のずぼらさにうんざりする以外は毎日楽しいと思いますよ」

 菊は包装紙を握りしめ、自分に言い聞かせた。

「でも、ダメです。貴方は連れていけません」

 アーサーは菊の言葉が理解できないという顔をした。しばらくして、その意味を呑み込むと身体を折って笑いだした。

「剪定が下手なんてウソつきだな! やっぱりお前も自分の家族が一番大事なんだ! あんなに優しい言葉をかけといて、いざ自分と家族の身が危なくなったらしっぽまいて逃げだすんだ!? 結局センセイだって父さんと同じじゃないか!」
「違います」
「なにが違うんだよ! ええ? 言ってみろ! お前は自分にふりかかる火の粉がうっとうしいだけだ。父さんと同じ。あの人はおれを愛しているって言ったけど、おれのために生き続ける気力はなかった! 母さんに愛されない自分を憐れむので精いっぱいだったんだ! 自分勝手で弱虫な父さん! おれはほんとはあいつが大きらいだった! でも、いまはお前が憎くてたまらない!」
「アーサーくん、落ち着いてください。私は貴方を愛しているから」
「愛してるんならそばにいろ! 薄っぺらい言葉はもうたくさんだ!」

 菊は言葉に詰まったように黙りこんだ。その反応は思春期にさしかかる繊細な心を打ち砕くには充分だった。アーサーは片手を額にあて、ひきつった醜い笑い声をあげた。

「聞いてください。ずっと一緒にいることはできませんが、これからもお手紙や電話で繋がっていくことはできます。そしていつか貴方の新しいご両親の許可が得られたら……」
「黙れ!」

 アーサーは菊に飛びかかると、彼が逃げないよう上半身に馬乗りになり渾身の力で両腕に力をこめた。菊の首はアーサーの手におさまってしまうほど細かった。アーサーは喉仏を押しつぶすように彼の首をしめた。

 身体的な反射で数度抵抗するように菊が痙攣した。けれど、アーサーの瞳にどうしようもない現実への嘆きや愛情への渇望を見ると、形容しがたい複雑な感情が生きようとする菊の本能をねじふせた。

 そして大いなる苦痛から解き放たれそうになったとき、砂袋を地面に打ちつけたような音がして、新鮮な空気が肺に送り込まれた。すぐ温かな腕が回され、むせこむ菊をけずくろいをするようにやわらかくさすってくれた。

 菊はその手のあまりの愛おしさに目をつむり身体を丸めたくなったが、いまそうするべきではないこともよくわかっていた。

「ありがとう。ギルベルトくん」

 そこでようやく、菊は久しぶりに彼に向って彼の名前を呼んだことに気づいた。この数週間、周りで起こることは列車の窓から見える風景のように彼自身から遠ざかっていた。

 そのなかで何度も銀色の子どもが励ますように笑いかけたり、菊の手を握って、彼が大きらいな野ばらをうたってくれていたことを思い出した。菊は胸がつぶれるような思いになった。

「ごめんなさい、ギルベルトくん。私は……」
「わかってる、キク。キクのこと、おれ様はちゃんと大好きだぜ」

 このとき、菊にギルベルトを抱きしめる以外のことができただろうか。彼らは一度分かたれたものの、再び家族という温かい繭におさまることができた貴重な一対だったのだ。少なくとも、菊だけはそう信じきっていた。

 温かい腕に抱かれ、ギルベルトは勝ち誇った笑みをアーサーに向けた。アーサーは歯がみし、視線だけで射殺せそうな目つきで彼をにらみ返した。

「おいジジイ。おれ様、こいつに話しがあるんだけど」

 菊が落ち着いたころを見計らって、耳元でギルベルトがささやいた。菊は不思議そうな顔でギルベルトを見つめ、つかの間自分でも信じられないほど卑しい疑いに襲われた。

 彼はアーサーが自分にしたようにギルベルトの首もしめるのではないかと考えたのだ。

 菊は自分のことは自業自得だが、ギルベルトをこの件に巻き込む気はなかったし、誰にも彼を害させるつもりはなかった。もちろん、菊はアーサーと同じくらいギルベルトを愛していたからだ。

 しかし、菊はその恐ろしい考えを振り払った。アーサーの暴行は彼が興奮のうちにあったからで、大人の自分が子どものコミュニティに干渉しすぎてはいけないと自分に言い聞かせた。

 ただ、なにかあったらすぐ飛んでいけるよう、この場所がよく見えるミニバンで待っているとギルベルトには告げておいた。

 菊は名残惜しそうにギルベルトの温かい身体を離し、彼らを敵のようににらむアーサーをふり返った。

「アーサーくん、覚えていてください。愛情というものは、たったひとりだけに注がれる法はないのですよ」

 アーサーは菊に唾を吐きかけた。ギルベルトが咆哮をあげ飛びだそうとしたが、菊がそれを押しとどめた。菊はもう教師のように彼をとがめたりはしなかった。

 ただ悲しそうにアーサーを見つめると、そっけない別れの言葉を告げオンボロのミニバンに歩いていった。


「おれ様がどれくらいお前をブッ殺したいと思ってるか、お前には想像もつかないだろうな」

 車のドアがしまったのを確認して、ギルベルトが言った。彼の声は聞いたものの背をぞっとさせるほど冷たく、殺気だっていた。彼は正面で唇をかむアーサーをせせら笑った。

「けど、おれ様は殴らない。お前にはそんなことをする価値もないからだ。きっと二年か三年もすればキクはお前についてこう言うだろうよ。『アーサーくん? ああ、本当にかわいそうな子でしたね。でも、いまは新しいご家族のもとに引き取られて、とても幸せな日々を送っていると思いますよ』お前はいつの日か思い出になり、キクがちょっとセンチメンタルな気分のときにだけ語られる存在になる。アーサー・カークランド、哀れな男の子でしたねってな!」
「黙れ!」
「おれ様はそれをキクのとなりに座って聞いてやるんだ。あいつが悲しそうだったら手を握ってやってもいい。だいじょうぶ、あいつだって今ごろジジイのことなんか忘れて楽しくやってるさ。ガキなんてそんなもんだぜとかなんとか言ってやる。お前がいなくなったくらいで、キクは変わりゃしない。そりゃあ、優しいキクはいま傷ついてるかもしれないが、一カ月か二カ月のことだけさ。つまり、お前はこれからのあいつの人生から永遠に切り離されるんだ!」
「やめろっつってるのがわからないのか!」

 アーサーは拳を振り上げたが、それはいつまでも下ろされることはなかった。ギルベルトはからかうように口笛を吹き、彼を挑発した。

 けれど、アーサーは泣きそうな顔でその拳をおさめた。彼らはミニバンのなかから菊がはらはらしながら様子を窺っているのを知っていて、アーサーがギルベルトに手をあげた瞬間、彼は菊に見向きもされなくなるだろうと考えていた。

「殴んねえの?」

 ギルベルトは馬鹿にしたように笑った。アーサーのなかで菊への憎しみとギルベルトへの嫌悪がせめぎ合い、葛藤を繰り広げていた。結果、勝ったのはもはや愛情といってもいいほどの菊に対する憎しみで、彼は黙って唇をかんだ。

 ギルベルトはそんなアーサーを軽蔑したように鼻をならした。

「おれ様のキクはおおむねいつも正しいが、一つだけ間違えてることがある。同じように、お前はこれ以上ないほどげす野郎だが小鳥のようにカッコイイおれ様と一つだけ意見の一致を認める」

 ギルベルトは紙袋――アーサーはようやく気づいたのだが、彼はラグビーボールが入るほどの袋を持っていた――を肩にかけて言った。

「離れたら愛情は薄れるし、消えることだってある。少なくともそれが本当にあるのか、もしくはあったのか疑いたくはなるだろ。だからおれ様はずっとあいつのそばにいるんだ。あいつがこっちを好きかどうかなんてカンケーねえ。お前と違っておれ様は自分を憐れむばかりじゃないからな!」

 ギルベルトは紙袋に入っていた花束でアーサーの横っ面を叩いた。それは美しい真紅の野ばらだった。アーサーは一目でそれが菊の庭に咲いていた野ばらだとわかった。

「ジジイからの餞別だ。それでマスかくなりなんなり好きにするんだな。クソホモのイギリス野郎!」

 銀髪の少年は肩をいからせ、菊が待つ車のほうに歩いていった。実のところ、彼はいくつか嘘をついていた。それは彼がそうであればいいと願った嘘だった。

 ギルベルトは菊が容易にアーサーを忘れはしないとわかっていた。アーサーが彼の一部を奪っていったことも、そして菊の傷ついた領域を自分が癒すのは難しいことも。

 おそらくギルベルトが菊を気づかったとしても、菊は優しい嘘と笑顔でそれを隠すはずだった。

 ギルベルトはアーサーが地獄におちればいいと思った。ただ、そう言うと菊が悲しむことが予想できたので、アーサーにあたり散らしたのだ。

 菊はギルベルトのすべてだったが、ギルベルトはもう菊のすべてではない。それが悲しくて、本当は彼も大声で泣きたかった。


「おれは、お前らを許さない! ぜったい後悔させてお前の一番愛おしい人を地獄に落としてやる!」

 アーサーは遠ざかるねずみ色のジャケットに向け声の限り叫んだ。ギルベルトはふりかえりもせずオレンジ色の車中に消えていった。ふるぼけたエンジンが象のうなり声に似た音をたて、ゆっくりアーリーズスクールから去っていった。

 アーサーはその車が視界から消えるまで――いや消えても、オールドハットンからランカスターに続く丘陵、長い石畳、風がオークの木を揺らす様子を眺めていた。

 しばらくして、彼は胸ポケットから紙マッチを取り出し擦った。一本目は手が震えて失敗した。二本目は強い風に晒されすぐに火が消えてしまった。三本目と四本目は一本目と同じ失敗。

 五本目は、首尾よく火をつけることができ、それを風から守るように手で覆った。

 アーサーは野ばらにマッチの火を近づけ、その素晴らしい真紅が火に呑まれるのをじっと観察していた。そして風除けを外しても火が消えないことを確認すると、花束を地面に落とした。

 野ばらは、だれかの心を代弁するかのようにごうごうと燃え続けた。金髪の少年は踵を返し、退屈な日常が待つ校舎へ鼻歌まじりに歩いて行った。

 音の外れた野ばらがか細くなりやがて聞こえなくなっても、誰もいない裏庭で花束は長い間燃え続けていた。



 童はみたり 野なかの薔薇
 清らに咲ける その色愛でつ
 飽かずながむ
 紅におう 野なかの薔薇
 
 手折りて往かん 野なかの薔薇
 手折らば手折れ 思出ぐさに
 君を刺さん
 紅におう 野なかの薔薇
 
 童は折りぬ 野なかの薔薇
 折られてあわれ 清らの色香
 永久にあせぬ
 紅におう 野なかの薔薇……