The fifth wheel of the coach ――五つ目の車輪――
様々な過去と人とを残したオールドハットンは過ぎ去り、ランカスターのにぎやかな学生街に向かっていた。とはいえ、先は長くギルベルトは延々と続くヒースの丘に退屈し、ステアリングを握る菊に話しかけた。
「なあ、ジジイ。これからどこ行くんだよ。ロンドンに戻んのか?」
リングを握る手が固くなった。ギルベルトはいやな予感がした。
「ごめんなさい、ギルベルトくん。ロンドンにある私の邸は売ってしまったんです」
「ちぇちぇちぇのちぇー! しかたねーな。じゃ、どっかに引っ越そうぜ! おれ様にふさわしい豪邸かつジジイ好みのでっけえ庭があるとこ!」
「それは難しそうですねえ」
菊は小鳥のような笑い声をあげたが、それはあからさまな作り笑いだった。
ロンドンの邸を売ったと知り、ギルベルトは大きなショックを受けていた。彼はロンドンの菊の住まいに愛着を持っていたわけではなかったが、売却を決意するほど菊がアーサーに対して本気だったことに寒気を感じていた。
「悔やんでるのか?」
「なんのことでしょう?」
「とぼけんな」
菊はギルベルトを見ないで、運転を続けた。いつか彼らのなかでアーサーが思い出に変わったとき語るべき問題だったが、ギルベルトはそれを無視した。
「ジジイはあいつを連れていきたかったが、できなかった。いくつか原因はあったが、一番はおれ様がいたからだ」
「違いますギルベルトくん。それは……」
「誤魔化すなよ。少しも後悔しなかったと言えるか? おれ様さえ先に引き取ってなかったら、あのクソ眉毛がいまここに座っていて、ガキっぽい歓声をあげてたかもしれねえっていうのに?」
「ギルベルトくん!」
菊は大声をあげて彼を遮った。それからため息をついて車を道路のわきによせた。反対車線を二時間に一台牛乳を乗せた荷車が通るくらいなので、ルールにうるさい菊も自分にそれを許したのだった。
菊は真面目な顔でギルベルトに向き合った。
「貴方は私のたった一人の家族。ダイヤモンドや黄金より価値のある大切な宝物です。世界中のだれが貴方を引き取ろうと言っても、私は貴方を余所にやったりしません」
「悔やんでねーの?」
「ちっとも」
「アーサーよりおれ様が大切?」
それにはこたえがなかった。菊は困った顔でギルベルトを見下ろしていた。
「恋とちがって、愛情に順序はないのです」
「でも、あいつはキクにひでえことを言った」
「もちろん私が彼の約束を破ったからです。彼にはそうする正当な権利がありました。それに一度愛してしまえば、きらうことはできない。愛とはそういうものじゃないでしょうか」
――蝕まれたら二度と治らない病魔のように
ギルベルトは内心そうつけ加えた。けれど、彼は菊がとても大切だったので言葉に出して言うのはやめておいた。
ギルベルトはいま菊が傷ついていることを知っている。彼を慰められるのが自分だけだということも。アーサーはいまここにはいない。いないのだ!
「つまり、おれ様は一生億万長者の子どもになれねーんだな。オレンジのオンボロ車に乗ったジジイで手をうたなきゃいけないってわけだ」
「ええ、そうですよ。億万長者にだってギルベルトくんは譲りたくありませんからね。貴方は水曜と日曜にシュニッツェルを作らせる意地悪なジジイにガマンしなければいけないのです」
「ったく、しょーがねえジジイだな!」
ギルベルトは助手席から身を乗り出し、固く菊を抱きしめた。菊もそれにこたえたが、その力はひどく弱かった。ギルベルトは菊にたくさん言いたいことがあった。しかし、それらぜんぶに蓋をすると、声変わりにさしかかる掠れた声で歌いはじめた。
「童はみたり 野なかの薔薇 清らに咲ける その色愛でつ 飽かずながむ」
菊はギルベルトを抱え、調子外れの歌に合わせて彼をゆらした。その姿は一見ギルベルトのほうこそ菊に慰められているようだが、真実はその逆だった。ギルベルトは自分のセーターが菊の涙で濡れていくのを感じていた。
二十分後、牛乳缶を積んだ荷車が対向車線からやってきて、道のわきにいつまでも止まっているミニバンをのぞいた。
そこでは銀髪の少年が腕の間からちらりと見える(おそらく)女性を守るように――独りじめするように抱きしめて歌をうたっており、彼は最近のイギリスの風紀のみだれにおおいに気分を害した。
「まったくなんたる恥知らず」
彼は口のなかで嘆きの言葉を吐くと、本日の売り上げを考えながら再び荷車を引いていった。
オールドハットンに着くころには、道中見かけた不謹慎なカップルのことなどすっかり忘れ去っていた。