のばらの子どもの恋ambivalence

 包丁が野菜をきざむ。大鍋でくつくつスープを煮込む。卵がじゅわっとフライパンにおちる。
 この世の優しさをつめたような音で本田菊は目を開けた。百合の花を三本束ねたような照明を見上げ、ここが彼のアパートだと言うことを理解した。

 菊は、目を閉じた。
 できれば、再び眠ってしまいたかった。自分がじゅうだいな過ちを犯したと知っているから。

「朝だよ。起きて、センセー」

 キッチンから出てきたフランシスがベッドに腰掛け、菊の髪をすいた。

「なぜ……?」
「センセーちゃんと飯食ってる? 抱き心地が悪くなったよ」
「……余計なお世話です」
「口のきき方に気をつけなよ。センセーには責任があるでしょう」

 フランシスは菊が顔をしかめるほどの力で髪を引っ張ると、今度は労わるように額にキスをした。

「早く起きなよ。ポーチドエッグがさめる」


 菊は、いたたまれない思いでクロワッサンを優雅に食べる青年――いつのまにか彼は青年期に差しかかっていた――を見つめた。イギリス一有名なパブリックスクールのシャツは、彼のために誂えたようだ。見事な巻き毛は朝日を受け、黄金に輝いている。

 それに比べ、菊は素肌に寝巻きを羽織っているだけのみっともない格好だった。着替えようとしたところフランシスが首を振ったのだ。彼は菊を徹底的に辱めるつもりだった。
 それに気づいても、フランシスに逆らうことはできなかった。

「センセー、お腹減ってない?……昨日あれだけ運動したのに」

 朝食に一切手をつけない菊を見て、フランシスがからかうように言った。

「なぜ、私を呼んだのですか? 中間休みは今日で終わりでしょう。寄宿舎に帰る前の日くらい、家族と過ごしなさい」

 菊は彼の揶揄を無視した。フランシスは不快そうに眉をひそめたが、すぐそれを誤魔化すように意味ありげな笑み浮かべてみせた。

 二人が向かいあって座る丸テーブルは、白いイギリス窓に面している。彼らの会話がなくなっても、外からの喧騒が食卓に沈黙を落とすことを防いでいた。

 菊はなにげなく外を見て、十歳くらいの男の子が泣いているのに気づいた。親とはぐれたのか、身も世もない泣き声に息が苦しくなった。それは、失くしてしまった大切な子どもを思い起こさせるからだ。菊は思わず席を立った。

「この辺は治安がいいから心配ないよ。見たところ捨て子ではなさそうだし、すぐ警察から親に連絡がいくだろう」

 フランシスが冷静にいさめたとき、通りの向こうから中年の女性が現れた。彼女は泣き喚いていた少年を叱りつけると、手をつないで雑踏にまぎれて消えてしまった。菊は彼らが消えた方向をとりつかれたように見つめていた。

「今年から監督生になったんだ」

 フランシスのやわらかな声が菊を現実に引き戻した。菊は彼の言葉を聞いていなかった。

「すみません……?」
「監督生になったよ。あのころと同じように」

 一瞬、息をとめた。

「彼が?」
「そう」

 誤魔化せない想いの奔流が菊に襲いかかった。
 菊は先ほどの少年を助けたかった。それは真実だが、本当に助けたかった少年は彼ではない。菊は記憶のなかの少年を助けたかった。

「彼は元気ですか? 寮で一人ぼっちになっていませんか? 誤解されやすい性格ですが、本当はだれより優しい子でしょう。彼は、愛されるために生まれてきたような子どもなのだから……」

 フランシスは飢えた菊の顔に唾を吐きかけたくなった。誰よりアーサーの人生を歪めた人間に彼を心配する資格はない。

 フランシスはこの五年間、ずっと菊を憎んでいた。
 彼の友人がすっかり変わってしまったあの日から。

「センセーにその権利があると思う?」
「わたしは……」

 痛みに耐える顔。

「上手くいかないとわかってたんだ。だから、あんたにも忠告したのに」

 フランシスは、マネキンのように笑うアーサーを容易に思い出せる。それは、菊に裏切られてから身につけた悲しい処世術だった。アーサーは、もう不器用で優しい少年ではない。

 菊のなかのアーサーが時を止めていることが許しがたかった――同じくらいあの頃から時を止めている菊自身も

「忠告を聞かなかったのはセンセーでしょ。あんたにわかる? 船が沈むのをただ見ているだけの気持ちが……」
「フランシスくん」
「解るはずない。あんたら結局お互いのことしか考えてないのさ。坊ちゃんは未だにセンセーに夢中だよ。あんたを忘れてマトモになれって忠告なんかまるで耳に入らない。よかったな。アーサーもあんたもクソっくらえ!」

 そのとき、菊が身を乗り出しフランシスを抱きしめた。音をたててカップが倒れ、二人のシャツにコーヒーの染みが広がっていく。

「ごめんなさい」
「なにが」
「私はいつも終わってから気づくのですね。……貴方も子どもだった。傷つかないはずないのに」
「離せよ」

 フランシスが苛立ったように肩をおしたが、菊は構わなかった。彼の声が、聞いたことがないような感じだったから――巣から落ちた雛鳥のような――弱々しさ。

 菊は、こんな風にだれかを抱きしめてやるのは久しぶりだった。だれかを守りたいと思ったことも。ずっと前からギルベルトを守りたかった。けれど、彼はもう菊を嫌っている。菊は彼を守ることはできない。だれも菊を必要としない。けれど、いまは違う!

 久しぶりに、菊は自分を取り戻したような気分になっていた。
 だからそのとき、降ってきたフランシスの唇に思い切り噛みついてしまったのだ。

「おれはあんたの子どもじゃないよ」

 フランシスは菊の心を見透かしてあざ笑った。その唇から鮮やかな赤い血が滴り落ち、彼のシャツを汚した。
 菊は、それをぼう然と見つめていた。

 ようやく自分たちが仕出かしてきたことのおぞましさを実感したのだ。

「シャツが汚れたな。ねえ、脱がしてくれる?」
「……おお、神さま」

 少年――フランシス・ボヌフォワは絵画から抜け出してきたように美しかった。ハート型の輪郭に美しい金の巻き毛を垂らしている。アーモンドの瞳、ツンと高い鼻、薔薇色の唇。

 彼は天使のように清らかな美貌の持ち主だったが、エロティックな歯型がそれを台無しにしていた。

――わたしが、彼を汚した。

 そう思ったとたん、菊はこの場から逃げ出したくなった。いままで彼の言うがまました行為がひどく汚らわしかったのだと実感した。

 菊は、彼に逆らうべきだったのだ。いくら償うためだったとはいえ、あんなことをするべきではなかったのに……。

「ほら、センセ」
「フランシスくん、ダメです。こんなの間違っている」

 乾いた唇を舐めて、ようやく言った。そのとき、一足で距離を縮めたフランシスが、その唇に噛みついた。菊は激痛にうめき、その場に崩れ落ちた。

「間違ってるのは、あんたそのものだ」

 フランシスは驚くほど冷たい目つきをしていた。菊はいままで、子どもがそんな風に人を見ることができるなんて知らなかった。

 彼は、菊の前にしゃがみこむと歯型のついた唇に爪をたてた。

「あんたを抱くのは、時が来るまであんたを苦しめ、その罪を忘れさせないためだ。これは、罰なんだよ」

 しばらくののち、木目調の薄汚れた床に血痕のついたシャツが二枚重ねられていた。
 白いテーブルの下から肉づきの悪い肢が飛び出し、大きく踵を反らせると力を失ったように床に落ちた。けれど、少しするとまた猫の尾のようにのけ反るのだった。


 真夏の庭園では、そこかしこに大輪の花が咲き乱れていた。
 ペチュニアの小道を抜け、正面に大理石でできた噴水が見えると、少女はようやく歩調をゆるめた。そこに見知った少年――フランシス・ボヌフォワの後ろ姿があったからだ。

 フランシスと初めて会ったのは、三カ月ほど前。叔母一家が親戚の子どもを引き取ったと聞いて、挨拶に行った日だった。

 引き取られた子ども、アーサーは表向き卒なく振舞っていたが、咲き誇る野ばらをときおりこれ以上ない激しさで睨みつけていた。

 少女は、彼の狂った瞳が恐ろしくてたまらなかった。彼のような年で、そんな目をする子どもは見たことがなかったのだ。

 だから、彼に話しかけられたときは恐怖のあまり泣き出してしまった。周囲の誰も彼の本性に気づいていない。ただ少女だけは、彼が飢えた獣であることに気づいていた。

「泣かないで、小さなお姫さま」

 そのとき、天使のように美しい少年が彼女の手を握った。そして、少年にぴったりな純白のハンカチで涙を拭ってくれた。

 彼の名前は、フランシス・ボヌフォワ。アーサーの幼馴染だと言った。
 その美しさに、ひと目で恋に落ちた。

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