のばらの子どもの恋ambivalence

 フランシス・ボヌフォワは、少女にとても親切だった。というより、彼は女の子には誰にでも優しかった。彼が声を荒げるときなんて、想像もつかない。

 ときおりそのわけ隔てない好意にやきもきしたが、裏を返せば、彼にはまだ特別な人間がいないということだ。告白しては振られたという噂を聞くたび、少女は胸をなで下ろしていた。

 フランシスの学校が休暇に入ると、たびたび彼を家に招いた。今日もいつもと変わらず彼と遊んでいたのだが、いつのまにか自分だけ眠ってしまったようだ。目が覚めると、フランシスはどこにもいなかった。

 日射しを防ぐパラソルの下には、飲みかけのオレンジジュースが二つ。カップの側面は汗をかいて、水滴がテーブルに滴り落ちている。

 少女は、フランシスが自分を置きざりにしたことに他愛もない怒りを覚えた。辺りを見回すと、庭の噴水近くに彼の素晴らしい金髪がのぞいている。彼女は、もちろんフランシスを追いかけた。

 その先に子どもの幻想を叩き壊す光景が待っているとも知らずに。

 赤や黄色や薄桃色の野ばらが噴水の正面に立つフランシスを囲むように咲き誇っていた。

 少女は、咄嗟に近くの黄薔薇の後ろに隠れた。フランシスと誰かが言い争う声が聞こえたからだ。彼が、そんな風に人を嘲ることが信じられなかった。

 言い争いの相手は、アジア人の青年だった。大人で、フランシスより頭一つ背が高い。

「わたしは貴方がわからない。フランシス・ボヌフォワ……!」

 アジア人が悲壮な声でそう叫んだとたん、二人の影が重なった。
 フランシスが青年の襟を引き寄せ、飢えた獣のような情熱で噛みついていた。青年が苦しそうに背を叩いても、フランシスは彼のすべてを奪い取りたいというように口づけをやめない。

 長いキスが終わると、青年は糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちてしまった。

「構わないよ。あんたの苦しみが、なによりの喜びなんだから……」

 倒れた青年を見下ろすフランシスに、全身が痺れたようになってしまった。彼の瞳は、アーサーが野ばらに向けていたものとまったく同じだったからだ。生々しい束縛と狂気。

 けれど、少女はもうそれを恐れない。それは、太古の昔からずっと人を苦しめていた病だろう。
 彼女は、それを知り、自分のなかの無垢な娘時代が終わったことを理解した。

 青年が立ち去ると、フランシスは最初から気づいていたように少女を見つめた。その頬は青年に叩かれたせいで真っ赤に腫れていた。

「出ておいで。迷子の子猫ちゃん」
「わたし、子猫ちゃんなんかじゃないわ」
「怒らないで。きみが、とても魅力的だって意味だから……」

 フランシスは先ほどまでの激情をかき消して、少女に笑いかけた。おそらくあの燃える情は、青年だけに向けられるものなのだろう。

――わたしではなく

 少女は、青年が羨ましくてたまらなくなった。

「こんなこと、お母さまが知ったら目を回しちゃうわね。学校にばれたら退学よ」
「そうはならないと思うね」
「どうして? わたしが、お母さまやアーサーに話しちゃうかもしれないわ」

 フランシスは困ったように笑うと、屈みこんで少女に口づけた。

 彼のキスはすばらしかった。小さな生きもののような舌が少女の歯列をくすぐり、彼女のものをつついて、やがて愛撫した。

 頭が熱病にかかったようになり、少女はこのことについてしか考えられなかった。
 だから、フランシスが急に唇を離したとき、苛立ちすら感じたのだ。フランシスは、少女をあやすように揺らしながら耳元で囁いた。

「あいつに今日のこと、言わないでくれるね」

 そんなつまらないことで、甘やかな時間が中断されてしまったのだろうか?
 少女は強請るように下唇にキスしたが、彼は笑顔をうかべたままそれには応えなかった。その笑みは砂糖菓子のように甘い。しかし、どこか有無を言わさぬ感じだった。

「ねえ」

 少女がようやく返事をすると、フランシスは天使のような笑みを浮かべ、いやらしいキスをしてくれた。
 あまりに紳士的で、ロマンティックすぎる口づけを……。


 荷物がつまったスーツケースを引いて屋敷を出ると、金髪の青年たちが花束を片手に立っていた。

 鼠色のズボンに黒のブレザー。眼鏡をかけボタンをすべてとめたアーサーとライラックのベストを見せつけるフランシスは対照的だった。

「見送りありがとう。来てくれないと思ったわ」
「お前の見送りか、アルのパーティのホストか。どっちがマシかわかるだろ?」
 と、肩をすくめるアーサー。

「よく言うよ。こいつ、アリスちゃんがアメリカに行くと聞いてずっと落ちこんでたんだぜ」
「落ちこんでねーよ!」

 アーサーはしばらく落ちつきなく視線をそらしていたが、やがて覚悟を決めたように花束を差し出した。

「向こうでもうまくやれよ。おれは、お前の決心を応援するから」
「ありがとう」

 一瞬、冷え冷えした視線を薔薇の花束に落とす。しかし、彼はすぐ笑顔を浮かべると、フランシスに場所を譲った。

「さみしくなるね」
「私のこと好きじゃないくせに?」

 フランシスは、目を丸くした。

「愛してるよ、お姫さま。決まってるじゃないか」
「嘘よ。貴方は自分の邪魔にならない女を選んでいるだけ」
「ああ、アリス……」

 少女は、愛する青年をまっすぐ見つめた。美しい青年だ。いつのまにか少女のような美貌を脱ぎ捨て、一人の男になりつつある。彼は、困ったように下唇を触った。そこに、歯形が見えた。

 頭のなかが沸騰し、少女は反射的に口づけていた――しかし、できなかった。

「……やっぱりね」

 彼女は、理解していた。歯形を残したのがだれか、フランシスの心を手に入れたのがだれか。それは、決して自分ではない。彼女は、「彼」の残滓にすら触れることを許されなかったのだ。

 少女は、自分の憐れさに泣きたくなった。けれど、それはいますべきことではない。

「あなたを愛してるの」

 フランシスは、少女を振り払った手をぼう然と見下ろしていたが、すぐその表情を隠した。

「ごめんね」

 彼は真摯な表情で言った。

「おれはたぶん、嫌いが一回転したものを好きになるのさ。きみは、愛しすぎるよ」
「じゃあ、わたし、貴方の好きな人を知っているわ」
「あれはちがう」

 フランシスは花束を差し出すと、少女の額にキスを落とした。

「さようなら。妹みたいに思ってたよ」
「妹とあんなことをするの? 嘘つきね」

 少女は、妖精のようなくすくす笑いをすると踵を返した。生け垣の野ばらは満開で、一足進むごと彼との思い出が蘇ってくる。だんだん、早足になっていく。

――わたしは、彼が好きだった
――本当に好きだったのだ……!

 溢れてくる涙をこらえきれないまま、待たせていた車に乗り込んだ。
 ゆっくり景色が動きだし、野ばらの咲く庭――初恋が過ぎ去っていく。
 
 結局、最後までフランシスは優しい言葉しかくれなかった。
 少女は、それがフランシスの表面でしかないことを知っている。彼の真実は、きっと例のアジア人だけに向けられたものなのだろう。

 いくつもの恋を重ねてもあのときのような想いを向けられることはない。
 憎しみに満ちた声は、甘い囁きよりずっと狂うほどの思慕を含んでいた。彼は、生涯このことに気づかないだろう。

 馬鹿ね、貴方、彼を愛しているのよ。彼を――

 運転手は、バックミラーごしに肩を震わせる少女を見た。娘と、ちょうど同じくらいの年ごろだ。彼は急に彼女を慰めてやりたくなった。

「なにがあったか知らないけどね、きみは若い。そして美しい。素晴らしい人生を送るすべてをもっているんだよ」
「でも、手に入らなかった」
「えっ?」

 運転手が聞き損ねると、少女は涙を拭いて微笑んだ。

「なんでもないの。ありがとう」

 車内は、むせかえるような薔薇の香りでいっぱいだった。
 運転手が、何度か窓を開けるか尋ねたが、少女は毅然とした調子でそれをはねつけた。彼女はずっと薔薇の花束を抱いていた。それが恋人そのものであるかのように、いつまでも。


 アーサーは、寄宿舎の自室でラテン語の書きとりをしていた。当然のような顔で居座るフランシスは正面の長椅子に横たわり、熱心に手鏡を見つめていた。

 おっかなびっくり唇を触り、徐々に爪をたてる。忌々しそうな顔をしたかと思えば、なにかに思いを馳せるように目を閉じるのだった。彼は、アーサーの部屋に来てから飽きもせずそれを繰り返していた。

「いい加減にしろ。跡が残るぞ」
「そうだね」

 フランシスは、彼らしくない愚鈍な仕草でスツールに手鏡を置いた。それでも無意識に気になるのか唇を舐めあげた。唇の歯形は、いやでもその相手や行為を想起させる。十代半ばの青年が持つには、いやらしすぎる勲章だ。

 アーサーはうんざりして、ペンを置いた。このまま彼を放って置くと、一日中だってそこを触っているだろう。

「意外だったぜ。アリスのこと、気に入ってるかと思ったのに」
「もちろん、気に入ってるよ。五年もすれば、彼女と踊りたい男が長蛇の列を作るだろうね」
「けど、振った。なあ、お前の本命って、その歯形をつけたやつなのか?」

 フランシスは、一瞬初めて見るような目つきでアーサーを見た。しかし、自嘲するように笑うと、目をそらした。アーサーはそんな風に自虐するフランシスを見たことがない。

「今度、そいつ紹介しろよ」
「やだね」
「なんでだよ。おれに知られたらまずい理由でもあるのか?」
「ああ」

 フランシスは、起き上がるとアーサーをまっすぐ見つめた。

「おれが、お前に殺される」

 はりつめた沈黙。アーサーは思わず息をのんだが、フランシスはすぐ悪どい笑みを浮かべた。

「だっておれ、お前の母親と寝てるもん」
「クソ野郎……!」

 冗談に憤ったアーサーが飛びかかり、しばらくの間、部屋のなかを下品な罵り声が響いていた。けれど、フランシスが寮監室からくすねた酒を出すと、アーサーは不貞腐れた顔で彼を許したのだった。

 テーブルの上に空の酒瓶が並び、いくつかはソファの下まで転がっていた。フランシスは、ため息をつきながらそれらを集めるとビニールにつめこんで暖炉に隠した。

 アーサーはいつのまにかベッドに潜りこんで寝息をたてている。うんざりして起こそうとしたとき、泣きそうな声で言った。

「キク……」

 涙が頬をつたって落ちた。フランシスはそれを拭おうか考え、結局やめた。代わりに、くすんだ金髪を労わるように撫でてやった。目をつむったまま、アーサーが寝ぼけた声で言った。

「今年も来なかった」
「うん」
「知ってるか? あいつも今日から新学期なんだぜ。だから、来るはずないんだ」

 アーサーは耐えきれないように目元を腕で隠した。

「今年で最後だったのに。結局一度も来てくれなかった。いつもおれは、選ばれない。おれは、ずっと好意のおこぼれで満足しなきゃいけないのか? そんなの、ぜったいいやだ! ……たった、一度。それだけでよかったのに」

 しばらくすると、アーサーは眠ったようだった。フランシスは、部屋のすみから椅子を持ってきて、背もたれに顎をのせるようにして座った。

 彼は、アーサーを見下ろしながら普段なら決してしない表情――苦悩に満ちた顔をのぞかせた。

 フランシスは、彼の幸せとは菊に近づかないことだと考えていた。
 なぜなら、菊のせいで彼は傷つき、子どもが決して持つべきではない感情――憎しみを得たのだから。

 この点においてだけ、菊とフランシスの意見は一致していた。
 だから、ここに来ないのは場所を調べるほど彼に興味がないわけでも、彼を忘れ去ったわけでもない。
 ここに来ないことこそが、菊の愛情の証だ。

 けれど、フランシスはそれをアーサーに告げる気はなかった。こんな風に、たった一人の友が苦しむならば、菊はもっと苦しむべきなのだ。

 いつかアーサー自身が許しても、フランシスは許すことができない――許さないべきだ。

 彼がアレをすることで傷つくならば、いくらだって傷つけてやれるさ。
 そう、アレをすることは、傷つけるために必要な手段なのだから。

 フランシスは、矛盾した論理を組み立てて、無理やり自分を納得させた。ただ、無意識に彼の舌はゆっくりと唇の歯形をねぶっていた。