会議室の息がつまるような雰囲気が鬱陶しくて外に出た。
が、とたんに後悔した。まるで起き上がったミイラみたいな顔の本田がテラスにいたからだ。はっきりいって、会いたくないやつをあげろと言われればクソ髭を抜いて、いまはこいつがトップだ。見なかったことにしよう。
「アーサーさん」
しかし、そうする前に本田がおれに気づいた。とたん、鼓動がはねあがる。ふたつの理由でだ。
まず、本田が想像以上にやつれていたこと。顔は青白く、目の下にはくまができている。この世の不幸をぜんぶしょいこんだような顔だった。二つ目は、よくわからない。ただ、本田を見ると反射的におれの心臓はうるさくなるのだ。今日なんて顔を見ることさえおぼつかない。いや、と自嘲する。顔を見られなくなったのは、だいぶ前からだ。
「お久しぶりです」
「あ、ああ。なにやってんだよ。こんなとこで」
「少し、考えごとをしていました。アーサーさんはなにを?」
「会議室が葬儀場みたいだったから抜けてきた」
「それはそれは」
本田は昔と同じ仕草で口を隠して笑った。しかし、その目が一瞬悲しげにゆれたのは見逃せなかった。
「では、私は先に失礼しますね。寒い日が続きますので、どうかご自愛ください」
「待てよ」
すれ違いざまに手首をつかむ。その冷たさと細さにぞっとした。まるで死の床にある人間みたいな温度だった。本田は困ったように目じりをさげると、至近距離でおれを見上げた。
また、不整脈のように鼓動がはねる。顔をそむける。今度はよくわからない理由のほうだった。
「なんでしょう?」
「『なんでしょう?』じゃねえよ。おれと顔を合わせるとまずいことでもあるのか?」
「まずいことはないですよ。ただ気まずいだけです」
「はあ!?」
天地がひっくりかえったような声が出た。本田はちらりとこちらを見あげると、珍しいことにいたずらっぽく笑った。
「じょうだんです」
「お前のじょうだんはわかりにくいんだよ」
「あいすみません。師匠から『戦場とパーティーにユーモアを忘れるな』と教えを受けておりまして」
「前も聞いたぞ。それ」
たしか、前に聞いたのは四十年ほど前だった。いまや義和団の乱とか呼ばれている戦場で肩を並べたときだ。思い出すと不都合な記憶も一緒にひっぱりだされそうなので、おれは再度記憶にヒモをかけた。
「アーサーさんがカナヅチとは知らなかったもので、あのときはお助けするのが遅れて申しわけありません」
「別にカナヅチじゃねえよ! 重力が浮力に勝ちやすい体質なだけだ!」
「おっしゃるとおりです」
下船の際、クソ髭に海につき落とされたおれを本田が助けた。それがきっかけでちょくちょく話すようになり、戦場ではなかなかいいコンビだったと思う。そのきっかけがあったからこそ、おれはこいつに同盟を持ちかけたのだ。厳密にいうと、本田の「師匠」も一枚かんでいるのだが、頭のなかが芋くさくなりそうなので忘れておく。
ふと気づいて本田を見下ろした。あのとき、こいつは細い手なんてしていなかった。そりゃおれたちに比べればもやしのように細かったが、こんな病的な細さじゃなかったし、どこかあっけらかんとした明るさがあった。それをこいつから奪ったのは誰だ? きくまでもない。
「なあ、ここはお前の戦場なのか?」
テラスに出たときから、白いテーブルのうえにカップが二杯あったことには気づいていた。その下に散乱した書類。律儀な本田がそれを見ようともしないのは、ふつうありえない。つまりこの場でふつうでは、ありえないことが起こったのだ。
「アルの要求を飲まなかったのか……」
「飲めるわけないでしょう!」
きっ、とした顔で本田が言い返した。黒目が宝石のようにきらきら光り、おれを見つめる。その吸い込まれそうな輝きになぜか顔を伏せた。やましさを抱えていたから伏せたわけじゃない。
そもそも国同士なんてそんなものだ。ナーサリーじゃあるまいし、仲よくお手々をつなぎましょう、なんてわけにはいかない。そんな甘ったるいことをいうやつがいたら、『失礼、手がすべった』と頭の風通しをよくしてやる。
だから、おれは断じて本田にやましさも名残り惜しさも未練も愛惜も感じてない。ただ、ちょっとおれにはわからない理由で顔を伏せたのだ。
「あいつはまだ若いから、強気に出ただけなんだよ。いまこそ二百年間鎖国してきた実力を見せるべきだろ。大英帝国サマ相手にしらばっくれたみたいにな」
「アーサーさん」と、本田はおれを憐れむように言った。
「アルフレッドさんは貴方が思っている以上に強かですよ。そして貴方が思っている以上に無邪気で、残酷な方です」
「なにがいいたいんだよ」
「あの方が、決して貴方には見せない顔だと思います。ですが、少なくとも私に対しては……」
本田は悲しそうだった。そしてどこかむなしそうでもあった。おい、誰のせいでこいつはこんな顔をしてるんだ? 決まってるだろと、おれがこたえる。アルとヒゲにのって、こいつを切り捨てたおれのせいだ。こいつより、アルを選んだおれのせいだ。
けど、それがどうしたって言うんだよ? 当たり前のことだろ。なんで、大英帝国サマが極東にぷかぷか浮いた小島のことを気にしなければいけない? 思い出せ。数ある国を従え、足げにし、一顧だにもしない。差別主義者、アーサー・カークランドを。たった一国との絆を失うだけだ。なんてことないだろう。
とうとつに、本田がおれをよんだ。
「貴方を尊敬しています」
その声以外、なにもきこえなくなった。
甘やかな風が薔薇(戦が終わった象徴、ヨーク&ランカスター種。クソッ、なんて皮肉だ!)を揺らし、本田が髪をおさえる。そして、おれを真っすぐ見ると、少しはにかんだ。
「でも、アーサーさんは皮肉屋でずる賢くて三枚舌で料理は下手で、なかなか人を信用して下さらないうえ、すぐ人を試そうとするので」
「おい待て。ならお前だってなあ……」
「手を離したのは私のほうですよ」
瞬間、悪態をつこうとした口がとまった。
「アーサーさんには、もううんざりです。同盟を破棄してすっきりしました。だから、貴方が罪悪感を覚える必要はないですよ」
すべてを見通した目でそう言うと、本田は丁寧にお辞儀をした。まるでおれに預けた「なにか」に別れを告げるようだった。もしくはおれが預けた「なにか」に対して。
お前は、会うたびおれの鼓動が煩い理由も、決して顔を見られない理由も、おれのなかに置いていくつもりなのか。もしくは、それらすべて奪っていくつもりなのか。
小さな背中が遠くなる。きっとこれが最後だ、と直感が囁いた。こうして本田と一対一で話せるのは。……そして、あいつにチャンスをやれるのは。
「本田!」
迷っている。それでも衝動的に名前を呼んでしまった。
自分がおそろしいことをしている自覚はあった。いましようとしていることは、アルフレッドへの裏切りだ。本田の言う「無邪気で残酷なアルフレッド」を見るはめになるだろう。あいつとの縁は切れる。なんとなく感じている家族の情だって一切なくなる。あの独立のときより、ひどい痛手を受ける。
でもアルフレッドの家のこと、たとえば地形だの主力艦だの戦闘機の数だのをしゃべれば、本田は助かるだろう。情報戦も、また戦争だ。だからおれが話しさえすれば、本田は助かる。
「アーサーさん」
くちびるに本田の人さし指がふれた。男にしては細い指が、おれの口をつぐませていた。本田は目じりを下げて、さかんにまばたきしていた。
「貴方がなにを言おうとしているのか、たぶんわかります。その言葉を聞くべきだとも。けれど、「それ」を言ってはいけません。前に一度、本当のことを話していただきました。それだけでじゅうぶんですよ」
本田は、ばかだと思う。おれが、有益な情報を持っていると知ってるくせに言わせない。それが、おれを追い詰めることだと気づいているからだ。視界がくもった。本田の顔が見えなくなった。
「きっと後悔するぞ」
「そうでしょうね」
本田が失敗した笑みを浮かべて、おれの顔をハンカチでぬぐった。
「けれど、甘い言葉で奈落に誘う手のなか、貴方だけが私の手を引き、光へと連れ出してくださいました。私はそれが、なによりうれしかったのです」
「……ばか」
「おそれいります」
「ひとつきいていいか?」
本田はきょとんとした顔でうなずいた。
「アルフレッドが憎いか?」
白いテーブルの下に散らばった書類を見る。きっとあそこで話しあいが行われた。まるで目に見えるようだった。えらそうに足を組んだアルフレッドが、プリントを投げつける。本田はかたい顔でそれを取り上げ、目を通す。ページをめくるにつれ、顔色はますます悪くなる。最後のページをめくったとたん、呆然と書類から手を離す。
「難しいですね」
「べつにおれ相手だからって、気をつかう必要はない。率直にいってくれ」
「ありがとうございます。けれど、率直に申し上げても答えは同じなのです」
「どういうことだ?」
「現時点でアルフレッドさんに好感を持つことはできません。ですが、憎いのか、ときかれるとまた違うのです。たぶん私は……」
本田は未知のものから身を守るように両腕をさすった。それから妙な早口で言った。
「こわい」
「こわいって。アルが?」
「ええ。アルフレッドさんがもたらすなにかが私を変えそうで、こわいのです。そしていつか、あの方をこわがらなくなるかもしれない自分が一番こわい」
「考えすぎだろ」
なだめるように肩をたたくと、本田はほっとしたように笑った。鼻をすすって、真正面からおれを見る。
「ありがとうございます。お元気で、アーサーさん」
「お前もな」
貴方をずっと尊敬しています。それが最後の言葉だった。本田はくるりと踵を返すと、今度こそふり返らずにテラスを出ていった。
しばらくの間、馬鹿みたいに突っ立っていた。これが別れだなんて思えなかった。たとえ、あいつがアルの申し出を断ろうが、即戦争と言うわけでもない。まだなんとかなる可能性も残されているだろう。もしかすると、数か月後には馬鹿な真似をしたものだとお互い笑いあっているかもしれない。
いつのにまにか、左手にハンカチを握っているのに気づいた。本田がおれの顔をぬぐってくれたものだ。返さないと。
薔薇のにおいのするテラスを出て、ホールに入る。床には黒と白の市松模様をしたタイルがしきつめられ、中央には地球儀に似たオブジェがかざってあった。地球儀の周りには水がはられ、ちょっとした噴水みたいになっている。そのぐるりに腰掛けている人物を見て、おれは息をとめた。
「Hey, アーサー! 勝手に会議を抜けるなんて、わがままなんだぞ」
「悪かったな。ちょっと気分がすぐれなかったんだよ」
「そうなのかい。ずっとここに?」
「いや五分かそこら前だ」
「それは変だな」
アルフレッドが中指で眼鏡をなおした。蒼いひとみはすがめられ、相手を威圧するように冷徹な顔をしていた。
「十五分も前から、きみたちがティーンの女の子みたいにぺちゃくちゃしゃべってるのが見えたんだけど」
クソッ、失敗した。おれはしぶしぶ両手をあげた。
「悪かったよ。テラスで偶然会ったんだ」
「別に責めてはいないんだぞ」
不貞腐れたように言って、アルがハンバーガーの包装をゴミ箱にほおった。けれど途中で墜落し、少々好ましくない悪態をついた。
やっぱただのガキだな。おれがこいつをこわがるなんて、男が妊娠するくらいありえない。
「なあ、アル」
「なんだい?」
「このままじゃダメか? これ以上変えることなんてあるのか? 現状を保つことが最も平和なんじゃないか」
アルがあきれたようにため息をついた。
「ついに頭のなかまでスコーンに汚染されたのかい? 現状が保てないからヒーローの出番なんだぞ。キクはおれのヒーロー的提案が気に入らなかったみたいだし」
「本田がきらいか?」
「その質問、流行ってるのかい?」
背を向けたまま、アルがこたえた。さきほこる薔薇庭園とアルの背中が重なり、こいつだけ別の空間にいるようにも見えた。
「こないだ、フランシスからも同じことをきかれたよ」
「なんてこたえたんだ?」
「こたえるまでもないだろ」
でも、とアルが首をかしげた。
「一人をずっと見つめ続けるのと、ずっと目をそらし続けるのは同じ、とかわけわからないこと言われたんだぞ。きみには意味、わかるかい?」
おれはアルを見ずに嘘をついた。
本田に会うたびはねる鼓動、決して見ることができないあいつの顔、その理由に気づきそうで怖かった。それを知ったら、おれのすべてが変わってしまいそうだった。だから、おれはなにも気づかないふりをして、すべてから目をそらした。