「あーあー。もう、だらしない顔しちゃって……」
「アーサーさん、うれしそうですよね」
ひとり言に答えが返ってきてぎょっとする。いつのまにか、となりにアルフレッドとよく似た相貌だが、醸し出す雰囲気は全く違う青年が笑っていた。
「マシューじゃない。びっくりさせないでよ」
「ええと、さっきからいたんですけど」
「あ、そう。なんていうか、ごめん」
「慣れてますから」
困ったような顔のマシューを見て、ふとフェリシアーノの言葉を思い出した。血だけは誰よりも濃い兄弟を彼はどんなふうに見ているんだろう。
「ねえ、マシュー……」
フランシスの問いかけには答えず、マシューは黙って空を見つめた。一瞬、はるか昔の光景が蘇った。西日が射す病室とアルフレッドと菊、めまいがするような光景。
あの日、マシューは戦後処理の山を放りだして病院に入り浸るアルフレッドを咎めにいったのだ。彼の上司からもういいかげんに戻って来てほしいと泣きつかれた。
はっきり言って、自分勝手な彼がマシューの注意ぐらいで言うことをきくとは思えなかったが、上司も溺れるものは藁を掴むという心境だったのだろう。
そもそもマシューは理解できなかった。菊はほんの十数カ月前まで敵国だったのだ。直接戦ったわけではないマシューも気まずくて顔があわせられないのに、当の本人は四六時中顔をつきあわせている。
よほどのボランティア精神の持ち主か、神経が有刺鉄線並みに太いか(アルフレッドは間違いなくこっちだろう)のどっちかだ。
どちらにしろ、アルフレッドが病室に通って数週間が過ぎていた。経験上、あいつはそろそろ飽きるころだ。どうせ、「ヒーローがケガ人の面倒を見るんだぞ!」とか言って引っ込みがつかなくなったに違いない。
彼を回収して後処理をするのはいつもマシューの役目だ。アルフレッドは面白いモノに目がなく、すぐ飛びつくが飽きるのも同じくらい早い。
そのたび、彼にひととき目をかけられた人物が『アルフレッド一番の友人』を自称し、大変面倒な事態に発展する。菊がそんな哀れな勘違いを起していないといいが、とため息をついて、病室の扉に手をかけた。
それを感じたのは、きっと本能だ。
言いようのない不安とおぞ気を感じてドアを開けるのを戸惑った。そうすると、静かな病室に似合わない水音が響いているのに気づく。
雨だれが地を打つような音ではなく、ネコがミルクを舐めるときのような音だ。
その音は断続的に扉の向こうから聞こえていた。口では言えないような妄想が頭のなかをかけめぐる。マシューは警鐘を忘れ、勢いよく戸を開け放っていた。
「やあ、マシュー」
そこには、マシューが心配した光景はなにも広がっていなかった。けれど、そう言って笑った兄弟に本能的な吐気を催した。
胸やけするほど甘い、まるで果実が腐ったような芳香が漂っている。
想像したよりだいぶ狭い部屋だった。
窓際には清潔なベッドが置かれ、その隣りの小卓には見舞いのつもりか色とりどりの果物が置いてある。部屋のなかにはあと一脚、木製の地味な椅子があるだけだった。国の化身がいる場所にしては質素すぎる。これでは病室というよりむしろ……。
ぴちゃり、と例の水音が響いた。必死に見ないふりをしても無駄だ。「それ」はもうマシューの目の前にあった。
右頬の半分にガーゼを張り、包帯で目かくしのよう目蓋を覆った菊が半身を起していた。服の上からでは見えないが、きっと包帯を巻いていない箇所はないのだろう。
だらしなく緩んだ白い帯が、掛け布団の上に何重にも伸びていた。それは羽化できなかった蚕に似ている。彼独特の潔癖さは消え失せ、代わりに退廃だけが持つ色気をはなっていた。
西日が射す部屋で、彼がアルフレッドの差し出す果実を獣のようにしゃぶっていた。
「ああもう、これが最後なんだぞ」
アルフレッドがニュートラルな笑みを浮かべ、肌色と赤紫が交ざった果物を与える。しずく型のやわらかい表皮を指ごと真っ赤な舌がねぶった。
目隠しをされた菊のあごから果汁と唾液が交じったものが垂れ、そのたびアルフレッドが拭う。腐敗直前の青臭くて官能的なにおいにくらりとした。
しばらくして、アルフレッドは彼の舌から表皮をつまんでゴミ箱に捨てた。べとべとになった指を舐めつつ、マシューをふり返る。
「待たせたね! キクはいま手を使えないから、おれが食べさせてあげてるんだぞ! それで、なんのようだい?」
「うん……」
アルフレッドをこわいと思うのは初めてだった。同時に自分がよく知る兄弟がはるか遠くにいってしまったと思った。
そういえば、菊が運ばれてきたときから彼は変わりはじめていた。意識のない菊を見て、妙に静かな顔で「じゃあ、彼はおれのモノなんだね?」と言ったのだ。
マシューはアルフレッドのそんな顔を、初めて見た。
あのとき、正しておけばよかったのだ。きっと、あれが無垢な彼が初めてほの暗いなにかを知った瞬間だったから。アルフレッドのそれは愛情ではなく、執着だ。
結局、マシューはなにも言わずに逃げ出した。すべてが恐ろしかった。平気な顔で菊をペットのように扱う兄弟も、生への執着をむき出しにする菊も、そして一瞬でもアルフレッドをうらやましいと思った自分も。
「で、どうなのよ?」
フランシスの声が、七十年前の病室から現代のパーティ会場へと引きもどした。マシューはにっこり笑って答える。
「きっと、ただの友だちですよ」
フェリシアーノと杯を交わしているとき、彼に呼ばれた。どうせ、またくだらない用事だろう。けれど、菊はいかなければならない。ため息をついて席を立つと、ふいに袖を引かれた。
「行かないで、キク」
フェリシアーノがどこか切羽詰まったような顔で菊を引きとめていた。
「ええ、すぐ戻って参りますよ」
「違うよ。行かないでほしいんだ。キクだって、あいつのわがままをきくよりおれたちと一緒にいるほうが楽しいでしょ?」
「フェリシアーノくん?」
「お願いだよ、キク。お前のためなんだ」
泣きそうな顔でフェリシアーノが言う。菊はそれを痛ましそうに見て、近くにいたアントーニョに声をかけた。
「お久しぶりです。アントーニョさん」
「久しぶりやなあ。あれ、フェリちゃんやん。そないにしょぼくれた顔して、どーしたん?」
目配せでだいたいのことを把握したアントーニョがフェリシアーノの肩を抱いた。後ろ手にさっさと行けやと合図される。菊はその背中に頭を下げ、会場の中心に歩いていった。
「遅いよ、菊!」
「すみません」
アルフレッドは会場のど真ん中で、周囲に遠巻きにされながら料理をほおばっていた。テーブルの上にいくつも皿が積み上げられている。ん、と差し出されたコップに無言でコーラをつぐと、一気にのみほし、けぷっと息をついた。
「行儀が悪いですよ」
「きみまでアーサーと同じこと言わないでくれよ。あの小うるさいのが二人に増えるなんて、想像するだけでぞっとするんだぞ」
「あの方も貴方を思って、忠告なさっているんですよ」
「知ったことじゃないね!」
そう言って肩をすくめたアルフレッドは、ふいに何かに気づいたように菊を凝視した。
「なんでしょう?」
「それ、あの眉毛のスーツかい?」
「ええ。さっきお借りしまして」
菊がいぶかしげな顔でうなずく。すると、アルフレッドがなんでもないことのように言った。
「だと思ったんだぞ。それ、ちょっと前にオーダーメイドで作ったって自慢してきたやつだからな」
「……オーダーメイド、ですか?」
「うん。確か、アクアなんとかってとこで十万ドルくらいしたって話しだぞ」
「じゅうまんどる!?」
ということは、1ドル=105円で換算すると105×100,000 つまり、一千五十万円。菊の顔がみるみるうちに青くなった。
「とんでもないお値段じゃないですか!」
「そうかい? おれの一カ月のおやつ代より安いけど」
「それはおかしいです」
菊は地の底まで届くような深いため息のあと、前髪をかきあげた。
「変に会場のなかを動き回れませんね。うっかりなにかをこぼしてしまっては目もあてられません」
アルフレッドはあきれたように肩をすくめると、モッツァレラチーズのピザをほおばった。
「それで、何のご用ですか?」
「ギルベルトと仲直りできたかい?」
「……おかげさまで」
慎重にそう答える。なぜか、無性にいやな予感がした。
「よかったじゃないか。おめでとう! きみに友だちが増えるのは、おれもうれしいんだぞ!」
「ありがとうございます」
「じゃ、今度あいつとか、あいつの家のこととか色々教えてくれよ! 菊はおれがちょっと好奇心を働かせただけで、出産前のネコみたいに大騒ぎしないだろ」
「もしかして……」
菊は呆然としてアルフレッドを見上げた。あのとき妙にサービスが過ぎると思ったのだ。アルフレッドが急かしたということは、彼の権限を借りてもいいということ。
だから、菊はホテルの関係者が使う道を通ってギルベルトに追いついた。もし、エレベーターを利用していたら、彼はとっくに車中の人だっただろう。
「最初からそれが狙いだったんですね? 私を利用してあの方の情報を得るつもりだった」
「人聞きが悪いこと言わないでくれないかい? おれはヒーローなんだぞ! この世界をよくしていくためには、必要なことなんだ」
「それが貴方の正義ですか?」
「当たり前だろ! おれがヒーローさ!」
DDDDDD !と笑うアルフレッドに、菊は慣れ親しんだ痛みを感じた。戦後からこっちずっと足首が痛むのだ。まるで、誰かに足かせをはめられているように。
一瞬だけ、夢を見た。ギルベルトを追ったあのとき、菊にはなんの打算もなかった。それだけは曇りない真実だ。そして、かつての師に言った言葉もそうだった。
けれど、菊が菊であるかぎり、決してアルフレッドの支配から逃れることはできない。
「貴方はいつもそうだ。貴方のために、いったいどれほどの国が、人が犠牲になるのか」
「なにを言ってるんだい、菊?」
アルフレッドは心底不思議そうな顔で言った。
「貴方のため、じゃなくて、おれたちのため、だろう?」
菊は無言で目を閉じた。
いつからか、気づいた。彼だけが菊を菊と呼ぶ。欧米では呼びにくい日本風の発音で、キクではなく、菊と。それほどアルフレッドが自分を呼んでいるのだと知ったときから、離れられなくなっていた。
「今日はこのままきみん家に行くんだぞ。作戦会議だ!」
「ここからなら、貴方の家のほうが近いでしょう」
「反対意見は認めないぞ! だってきみん家、うさぎ小屋みたいでとっても面白いからね!」
きっと十数時間後には、罪悪感に苛まれながらアルフレッドの言うことにうなずいている自分がいる。そして、この会場にいる間もフェリシアーノのところへ戻ることはできないだろう。いや、これからもずっと。菊が戻る場所は決まっているからだ。
遠くに見える茶髪に内心で謝罪して、差し出されたスプーンに口を開ける。
目を閉じたまま味わった果実は七十年前と同じ味がした。