『信じられるか!? あの商売女一度ヤっただけで、捨てただなんだ大騒ぎだぞ!』
それって商売女じゃなかったんじゃない? と思ったが黙っていた。やぶをつついて蛇を出すのはごめんだ。
「はいはい。大変だったのね。ちゃんとお別れした?」
『ちゃんと捨てた。まったく、男の本田のほうがよほど淑やかで品もいいぜ』
「……そう。で、キクちゃんはまだお風呂?」
『だろうな。テムズ川でヒップホップ踊ったような有り様だったし。あいつ昔から風呂長いんだよ』
「へえ、意味しーん」
『……ばっ! ちげーよ、勘違いすんな! 前にあいつの家に泊まったときそう思っただけで、別になんにもなかったんだからな! 切るぞ!』
『き、菊!?』と妙に焦った声を最後に通話は終わった。手のなかの携帯に向かってにまりと笑う。
へえ、「菊」ねえ。とっさに内心で呼んでいるほうが口に出てしまったんだろう。これはいいネタだ、向こう一カ月は楽しめる。そううきうきしていると、こちらをうかがっていたフェリシアーノが心配そうな声で鳴いた。
「キク、まだ戻って来ないって?」
「うん。もう少しかかるみたいよ。退屈? アルフレッドもマシューのやつもいなくなっちまったし」
「そんなことないよー。フランシス兄ちゃんがいるからね。それにしても、おれたちを手伝ってって話しなのに、どうしてマシューがいたんだろう」
「あー、あいつはまた別件なんだよ」
そして、おそらくギルベルトの本命はこっちだ。詳しくはフランシスも蚊帳の外なので推測になるが、先日の盗聴騒ぎでアルフレッドと協定を結んだあいつらの家が、もっと太いパイプを望んだのだ。
たとえば、アルフレッドがアーサーやマシューらと結ぶいわゆる『秘密クラブ』に入ることだったり。
ただ、この件はアーサーが強硬に反対していて、今日の遅刻はあいつと同じテーブルにつく気はないという意思表示だろう。なにはともあれ、大戦からこっち異様にアーサーを毛嫌いするギルベルトと当の本人がはち合わせしないで(個人的には不満だが、全体を見れば)よかった。
まあ、アーサーのやつも最近沸点があがってきたようだし、めったなことがなければ大丈夫だろう。
電話口のゆるんだ声を思いだして、フランシスはため息をついた。
「ねえ、フランシス兄ちゃん」
「はいはい。なにかな」
寝ぼけたような目を開け、フェリシアーノはビュッフェの前で騒ぐ兄弟を見つめていた。
「アルフレッドとキクってどんな関係なのかな?」
「そりゃまた……」
「気にならない?」
ならない。
戦前の彼らの不安定さは青い果実のようで面白かったが、関係が完成したいまの二人にはとくに興味はなかった。それでも強いていうなら、腐りきった果実というのが近いだろう。あの癒着具合は他に例えようもない。
ただ面と向かってフェリシアーノにそう言うわけにいかず(これでも、フランシスは彼をかわいがっているのだ)なんとかぼかした表現を探した。
「運命の人ってやつじゃない?」
「ふうん。ルートと同じことを言うんだね。ギルベルトは、それきいて爆笑してたよ。だけど、おれは運命ってことば、大きらいなんだ」
ぎょっとするフランシスをしり目に、フェリシアーノが憂鬱そうな顔でワイングラスをかたむける。
「そもそも運命の人って幸せをもたらす相手なのかな? 相手の一生に大きな影響を与えるのが『運命の人』だったら、とんでもない災いをおこすやつかもしれないよ」
「フェリちゃん」
「おれ、ルートとキクと約束したんだ。ずっと友だちでいようねって。だから、二人には幸せでいてほしいんだ」
そう言ってフェリシアーノはグラスを彼らに向けた。透明なガラスの向こうにアルフレッドたちの姿が見える。
「『ラテンの恋は狂気が残り、ゲルマンの恋は理性が残る』これ、おれがみんなを見て思ったことだよ。きっと、フランシス兄ちゃんならわかるでしょ」
「なんで、お兄さん『なら』わかるのかな?」
「思い当たるところがなかったら、そんな怖い顔しないよ」
フランシスは唇をおおった手の下で苦笑した。
「今日のフェリちゃんは手厳しいな。いったいどうしちゃったの?」
「どうもしないよ。ただ、あいつらの恋が透き通ったヴェートロみたいで、どうしてだろうって考えて気づいたんだ。おれたちと違ってすごくマトモなんだよ。だから、ギルベルトはいまのキクに関わっちゃダメなんだ」
「どうして」
「抜け出せなくなるから。アーサーと同じで。あいつの糸はとっくに焼き切れたのに、泥沼から抜け出せないんだ。だからギルベルトはキクから離れたほうがいい。キクのためにも、それが一番いいんだ。もう、手遅れかもしれないけど」
フランシスは久しぶりにあの果実が腐ったようなにおいを思い出した。そして、死にそうな顔をしながら決して部屋を出なかったアーサーも。背筋がぞっとして、フェリシアーノにたずねた。登場人物が一人足りないことに気づいたのだ。
「じゃ、アルもキクちゃんに捕まったの?」
「ちがう。キクがあいつを捕まえたんじゃない。あいつがキクを捕まえちゃったんだ」
フェリシアーノは無表情でそういうと、ワインを一気にあおった。
「ねえ、すごーくいまさらなんだけど、もしかしてフェリちゃんってアルのこと大きらい?」
「にやにやしてる兄ちゃんには教えたくないよ」
あらバレた。まあ、泥沼に片足つっこんだ悪友をクラッカーで祝福してやりたい程度にはゴキゲンだ。にやついたまま、ホールに目をやるとちょうど渦中の人物がこちらへ向かってくるところだった。その隣りのアーサーと目が合い、即座に思考を切り替える。
「やあ、キクちゃん。おかえり」
「ただいま戻りました。フランシスさん、フェリシアーノくん」
「おかえり、キクー!」
フェリシアーノがさっとキクに抱きつく。その隣りでアーサーは彼を射殺しそうな目でにらんでいた。
「殺気がだだもれよ。坊っちゃん」
「うるせえクソ髭。で、クラウツの様子はどうだった?」
「お前はもう。すーぐ色気のない話しをするんだから」
「テメーと色気のある話しをするほうが問題だろうが! どうなんだよ」
「そうだねえ」
一瞬、アーサーが抜け出せなくなった、という言葉がよぎったが、差し迫った問題のほうが大事だ。
菊がやって来る前、アルフレッドと話していたあいつを思い出す。
さすがにポーカーフェイスで表情は読めなかったが、アルフレッドが例の件を了承したとは思えない。あえてアーサーを待たずに帰ったということはあいつ自身、案を練り直す必要を感じたと考えたほうが妥当だろう。
裏でギルベルトの様子を探っておけと言われた(あと結構おいしい報酬につられた)ので努力はしたが、あいつがらみの依頼はもうごめんだ。ギルベルトの見透かすような目を思い出す。
あれはぜったいアーサーの手が入ってると気づかれた。けれど、失態をわざわざ教えてやる義理はない。
「ギルがいまここにいない時点でわかると思うけど、アルフレッドはあれを認めてないだろうね。でも次は相当練り込んで来る。それに『家』はともかくギルベルト自身は本気で加入を考えてるわけじゃないだろ。むしろ加入できたら儲けもんで、本命はアルとの協定をより有利にすすめようって腹じゃないかな。あと老婆心だけど、本気出したギルは面倒だよ」
「そうか」
アーサーは考えこむようにうなずくと、近くにあった紙ナプキンに何事か書きつけフランシスに渡した。
「約束の報酬だ。お前が欲しがってたドイツ人技術者。うちの金を遣い込んで相当追い込まれてる。いま声をかければ簡単になびくだろ」
「メルシー」
フランシスがナプキンにキスしたのを見て、アーサーは見ず知らずの技術者に一瞬だけ憐れみを抱いた。甘い言葉に誘われ夢の国フランスに行ったとたん、そいつはそこを地獄と知るだろう。
死なない程度、ギリギリの搾取を一生受け続ける。(なんせ、おれたちは長生きだからな)もしくは、故郷のドイツに送り返され技術スパイとして働かされるか。どっちにしてもロクな一生を過ごせまい。
こいつは、トリコロールのために他者を利用するのを厭わない。その迷いのなさがうらやましかった。いまのアーサーは昔とちがって、彼が関わることで迷わないことはない。もし、この技術者がアメリカ人か日本人だったら、自分は引きわたすことができただろうか。
「ひとつ不思議なんだけど、どうしておれに頼んだの? キクちゃんに頼めばよかったじゃない。あの子のほうがアルフレッドとも近いし、二人の様子がうかがえたでしょ」
「ダメだ」
断固とした口調にフランシスはあっけにとられた顔で口を閉じた。
「おれは二度とあいつを利用しないって決めたんだよ。純粋だから向いてないし、こーいうことには関わってほしくない。本田には最高の日々を送ってほしいんだ」
「それが、お前にとって最悪でも?」
アーサーは肩をすくめて答えに変えた。それだけが菊への唯一の償いなのだ。結局アルフレッドを選ぶしかない自分には、せめて彼の幸せを願うことしかできない。
だから、菊には澱みがない美しい世界にいてほしかった。アーサーは、彼が国としては奇跡と言ってもいいほど優しく純粋だと知っているのだ。
そのとき、気遣わしげな顔の菊が料理を持って近づいてきた。二人に会釈すると、アーサーに声をかける。
「先ほどは大変ご迷惑をおかけしました。そういえば、なにか問題があったようでしたが、だいじょうぶでしたか?」
「問題?」
「あ、きいてよキクちゃん! 坊っちゃんったら、一度寝たしょうば……」
とつぜん、フランシスが腹を押さえ黙りこんだ。アーサーは沈鬱そうな顔でうつむく。
「つきあってた女と別れたんだ。……悪いかよ」
「とんでもないです。残念ながら、その女性には見る目がなかったのでしょう。アーサーさんのようにハンサムで優しい方には、すぐ素敵な出会いがありますよ」
「な、ななに言ってんだ!」
「事実ですので」
にっこり笑う菊に顔を赤らめたアーサーは、うずくまるフランシスに凍てつく視線を送った。
『言ったら、コロス』
婉曲された事実を正したら、命が危ない。そう直感して、フランシスはコクコクうなずいた。
この過剰な猫かぶりはどうにかならないだろうか。菊だって一応男だし、数千年生きた国だろう。いまさらアーサーがベッドの上でダンスをした(セックスの婉曲的表現だ)といっても引きつけを起すはずがない。
しかも「つきあってた女と別れた」だって?
「ヤる専の商売女を捨てた」の間違いだろう!
それに、どうもアーサーは菊に対して夢を見過ぎている。
いくら菊が優しいといっても、あくまで「国」である範囲の話しだ。あの激動の戦後を生き抜いた人物が優しいだけではありえない。
きっと、アーサーには見えないところで、菊は菊だけの戦いに勝ってきたのだ。彼は少なくとも戦前、ギルベルトに甘いとどやされた彼ではなくなっている。
そしてアーサーが言うほど、純粋でもない。そう、こいつが菊を変えたからだ。
フランシスは後ろから菊に抱きついたアルフレッドを見て目を細めた。
「遅いよ菊! 待ちくたびれたんだぞ!」
「すみません。ちょっと近道をしたせいで、服が汚れてしまって」
「おい、本田の迷惑も考えろ。飯持ってるだろーが」
アルフレッドは菊の頭にアゴをのせ、さも驚いたように目を見開いた。
「いたのかアーサー。遅刻だぞ。料理もすっかり冷めちゃったじゃないか」
「いらねーよ。冷めた飯なんて生ゴミと同じだろ。どっかのスタンドでホットドックでも買うさ」
そう言ったアーサーに場がシンと静まりかえる。アルフレッドがばかにするように鼻をならした。
「なに言ってるんだ。この前きみん家で食べたごはん、ねこのゲロみたいだったんだぞ。それにいま彼が持ってるの、きみのために菊が持ってきた菊の家の料理だよ」
そう言ったとたん、アーサーが無言で菊から皿を奪いとり一口、口に放りこんだ。
「つまりだな、その、なにが言いたいのかというと、これは冷めてもイギリス料理と同じくらい美味いということだ」
「……ありがとうございます」
ようやくそう言ったものの、菊の笑顔は見事にひきつっていた。