ネクタイをゆるめ、ボタンを外し、オールバックの髪をくしゃりと戻す。最悪だ!
「シャイセ!」
すれ違ったやつがぎょっとした顔でふり返る。だが、構うもんか。見たきゃ見ろ。おれ様はいまサイコーにサイテーな気分なんだ。
早足でホールを抜け、エレベーターのボタンを押す。待っている間に先ほどの会場を思い出し、ギルベルトは舌打ちした。
自分の意見もなく、他人におんぶにだっこなやつは大きらいだ。そんなやつは全員軍隊にでもぶちこめ。おれ様直々にしごいて、甘ったれた根性を叩きなおしてやる。が、自分の意見があるくせに、他人に支配されてるやつはどうすりゃいいんだ?
上の階で止まったままのエレベーターに悪態をついて蹴飛ばし、階段側にまわりこむ。
本田の黒い目が気にいっていた。あるときは好奇心でかがやき、あるときは挑戦的に燃える。様々な感情に輝く目は宝石のようで、見ていると面白かった。だが、いまのやつの目は光を失ったビー玉だ。
脳裏に「ええ、まあ」と無表情でうなずく顔がよみがえり、さらに言うとわがもの顔で菊を囲うガキまで思い出し、吐気がした。あいつが菊を扱う態度は主人が使用人に対するものと同じだ。菊が逆らわないのが余計にむかつく。
極め付きはコーヒーだった。注文もきかず、当たり前のように砂糖四杯とミルクをカップにぶちこむ菊。当然のようにそれを飲むくそガキ。二人のつきあいの深さがかいま見えた。
だが、なにより最悪なのは、そこまであいつらをじろじろ見てたこのおれ様だ。シャイセ!
現役時代の訓練のような上下運動のあと、ようやく大広間に出る。天井からは高そうなシャンデリアがつり下がり、エントランスに繋がる中央階段には赤いじゅうたんがしかれていた。その先で息をきらす男に思わず息をのむ。
「最近の日本じゃ、肩からオレンジの皮をぶらさげるのが流行ってるのか?」
菊は肩から垂れるオレンジの皮をぎょっとしてつまむと、恥ずかしそうに背中に隠した。
「近道をしたもので」
「とんだ獣道だったみたいだな」
菊が階段を上って来て近づくと、予想以上にひどい格好なのがわかった。ディスポーザーのなかからはい出てきたと言われても、なるほどとうなずいてしまいそうだ。烏の濡羽のようにつややかな髪は見る影もなく、スーツには得体のしれないシミがいくつもついている。しかし、(最も)驚くべきことに菊の頭はまだマトモらしい。
「なんでそんなトコ通ったんだ?」
「貴方に追いつくためです」
ビー玉のようなひとみが自分を見あげる。一瞬、それが昔と重なった。ギルベルトを信頼すると言った弟子の目だ。アルフレッドのジャケットに隠される前の菊だった。
「ここはオーナーが日系アメリカ人ですから、あの人の名前を出せば多少の無茶が通るんですよ」
「ああ、そうかよ」
かけようとした言葉はのどの奥に消え、一気に胸が冷めた。本田菊はかつて弟子だった。かつて自分を信頼していた。だが、菊は二度とギルベルトを師匠とは呼ばない。呼べないのだ。数十年ぶりに再会して以来、彼の身体にはずっとアルフレッドの腕がまきついている。
むかし、ギルベルトは菊に言われたことがあった。私たちにとって首とはとても尊いものなのです。首を切ると輪廻の輪に組みこまれないという伝説もあるのですよ、そう言って笑った。異国の習俗だなと面白がったのを覚えている。
だから、首を捧げるようにアルフレッドにタイを結ばれる姿を見たときは息がとまった。あのおぞましい瞬間、ギルベルトは実感したのだ。間違いなく本田菊はアルフレッドに作り変えられたのだと。
「貴方がいまの私に失望しているのは知っています。おめおめと生き恥を晒すのは心苦しいです。しかし」
「違えよ」
菊が驚いたようにまばたきした。くそガキのジャケットから出てきたこいつは確かに変わったのに、ときどきはっとするほど昔と同じ顔をする。いまみたいにギルベルトを信じきった無防備な顔をするときだ。
「死んだら終わりだ。相手のクツだかケツだか舐めようが、生き残ったほうが勝ちなんだよ。だから、おれ様が気に食わないのはお前の主人がお前自身じゃないことだ」
「敗戦国は逆らえません。ご存じでしょう」
「違えよ。ここの問題だ」
ギルベルトは一段下りると、菊の胸を指さした。
「前のお前はいつも迷ってただろーが。けど、お前の正義はお前自身のものだった。だが、いまはどうだ? お前の正義はだれのものだ?」
「ギルベルトくん……」
「で、お前はいつからおれ様を名前で呼べるほどえらくなった?」
そのとき、殺気を感じて菊ごと地に伏せた。自分たちがいた側の壁から塗料と石が飛び散る。それを視認してすぐ、菊の口をおさえて柱の後ろにひっこんだ。
「ギルベルトくん! 息ができませんってば」
「じゃ、息すんのやめとけ」
弾が飛んでくる方向に気づき、ギルベルトは不敵に笑った。菊を小わきに抱え、手すりから身を乗り出す。
「死んじゃいますよ!」
「死なせねえよ」
一瞬の無重力を味わったあと、二人は真っ赤なエントランスの中心に立っていた。それを見て、小銃を構えたアーサーが舌打ちした。
「じゃが芋くさい手を離せ。クラウツ」
「気に食わないことがあったら手を出すのか? ガキと同じだな」
「ガキが銃を持っているか?」
「アーサーさん!」
ギルベルトの手から逃れ、酸欠で顔を真っ赤にした菊がアーサーにつめ寄った。
「ご無事ですか? いま銃弾のようなものが飛んできて……あれ、その銃は?」
「あ、ああ。恐ろしいほど腕のいいスナイパーに対抗しようとしたんだが、気のせいだったらしい」
「気のせいですか?」
「ああ、断じて気のせいだ。それより、久しぶりだな」
アーサーはあわてて銃をしまうと、スーツの背で手を拭いその手をさし出した。
「はい。お久しぶりです」
まるで女王陛下の手を握るような態度にギルベルトは絶句していた。
悲しいことに長い付き合いでこいつが女に対してでさえ、これほどうやうやしい態度ではないのを知っている。コナをかけて来た女に「そんなにヤりたいなら、ワインボトルでもつっこんでろ」と皮肉げに笑う神経の持ち主だ。いまはだいぶマシになったようだが、こいつの本質はそう変わっていないだろう。
この場でアーサーの過去を洗いざらいぶちまけてやろうかとも思ったが、からかいに命までかけるのはばかばかしい。と心底思ったので、無言で踵を返した。
「待って下さい。ギルベルトくん、これを」
「なんだこれ?」
差し出された封筒をあけると、搭乗券が出てきた。ギルベルトは苦虫をかみつぶした顔で胸ポケットを確認する。
「シャイセ! あのフラ公が!」
「いえ。あの方は私に気をつかって下さったのですよ」
「まさかお前まで、あいつをお優しいやつだとか言わねえよな?」
「いえ」
「どうしてそう思う?」
珍しく首をきっぱりふった菊を面白がり尋ねる。
「あの方の笑顔はすこし素敵すぎるのです。まるで毎日お風呂の鏡の前で練習しているようで」
「なるほど。さすがおれ様の弟子だぜー!」
思わずくしゃりと頭をなでると呆然とした顔で菊がギルベルトを見上げた。そして困ったようにその手から逃れる。胸が打ち抜かれたように痛んだ。
「ごめんなさい。でも野心は失くしても、優しさはなくしません。ずっと」
その意味がわかったとき、ギルベルトははっと顔をあげた。そして挑発的ににやりと笑う。
「じゃ、今度はお前がそこで待つ番だぜ」
「……ええ」
お辞儀をする菊にスーツをかぶせ(いまさらだが、こいつすごく生ごみくせえ)今度こそ、踵を返した。ふり返らなくても後ろで彼がまだ頭を下げているのがわかる。こいつのせいで早足で去るくせがついたのだ。ただ、アーサーにわざと肩をぶつけた際、ぼそっとささやいた。
「むかしお前が変わったと思ったが、おれ様の勘違いだったみたいだ。安心しろ、お前は足の先までくそライミーのままだぜ」
アーサーはどういう意味だと顔をあげ、息をとめた。背を向けるギルベルトの足に赤黒い縄が蛇のように巻きつきはじめていたのだ。
シャアアと大粒の水が勢いよく降り注ぐ。タイルを打つ水音と外からもれ聞こえる人の声。菊は壁に額をつけシャワーの水に打たれた。
あの頃は迷わないことなんてなかった。駆け引きだらけの舞台で誰を信じ、誰を疑うのか、始終迷っていた。だが、いまは彼が目かくしで与える「真実」に迷わず口をあける。そうしなければ生き残れなかったし、迷わないことじたいひどく楽だったのだ。
「それを、貴方はお見通しだったのでしょうね」
蛇口をきゅっとひねりシャワーを止める。ラックに置いてあったシャツに着替え、タオルで髪を拭きつつバスルームを出た。
リビングでは、ちょうどアーサーが電話の相手を怒鳴りつけているところだった。二言三言、菊には聞き取れない早さで悪態をつくといら立たしげに電話を切る。
「あの、アーサーさん」
「き、菊!?」
通話の終わりを待って声をかけると、アーサーはひどく驚いたようだった。菊を見てぽかんと口を開け、みるみるうちに赤面する。
「わざわざお部屋を取って下さったうえ、着替えまでご用意いただき申しわけありません。本当にありがとうございます」
「別にお前のためじゃない、おれのためだ。来てそうそう、ばかどもの顔を見ると思うと憂鬱すぎてうっかり自殺しそうになるからな」
「いえ、とんでもないです」
本心からの言葉だ。アーサーはゴミ置き場でのたうちまわったような菊に顔をしかめると、汚れるのも構わず手をひいてフロントまで連れて行ってくれた。
もちろんフロント係は菊の姿を見ていやそうな顔をしたのだが、そこでアーサーが妙に怒った。アメリカ英語を話す彼に皮肉っぽくsorry?を連発し、つづりや文法の違いをいちいち指摘し、気取ったポッシュで相当えげつない脅しをかけたすえ、スイートルームを二時間もぎとる。
泣きそうな顔のフロント係には、心底申しわけなかった。あと、アーサーさんの前ではぜったい英語を話さないようにしよう。
「早く上着着ろよ。みっともないだろ!」
「すみません」
ていねいにアイロンをかけたジャケットが椅子に、投げ捨てるかのようにギルベルトのジャケットがサイドテーブルに放りだされていた。アイロンがかけられているほうに見覚えはない。深みがある黒のストライプで全体的にタイトな印象の上着だった。
一瞬迷ったものの、菊はギルベルトのジャケットを手にとった。
「なんでそっち着るんだよ」
そのとたん、不愉快そうな顔でアーサーが口をはさんだ。
「せっかくギルベルトくんが貸してくださったものですし、そちらはアーサーさんの上着かと思いまして」
「違えよ」
アーサーは眉をひそめると、探るような目つきで菊を見た。
「お前、クラウツになんかそそのかされたか?」
「いえ。ただ、久しぶりにお会いしたので世間話をしていただけですよ」
直感でギルベルトとの会話の内容は伏せたほうがいいと思った。彼のいう「正義」は聞こえによってかなりまずいものだ。もちろんアーサーやアルフレッドの耳に入ればいい顔はされないだろう。
「そうか。お前も『秘密クラブ』とやらに入りたいのかと思ったぜ」
なんのことかと首をかしげた菊にようやく納得したらしく、アーサーは口元だけで笑った。
――試された。
いまのは間違いなくそうだ。アーサーは優しい。それは確かに彼の一面だが、傲慢な選民主義者という一面もまた彼なのだ。疑い深いアーサーが信じるのは、あとにも先にもその義弟だけ。さきの戦争でいやというほど実感したはずなのに、アルフレッドの意見にすべてうなずいていたせいで、すっかり忘れていた。
「いいからさっさと服着ろ。もちろん、おれのやつだからな!」
「ええ。ありがとうございます」
おれのやつ? 内心首をひねりつつタイトなジャケットにそでを通す。サイズは大きめだが、細身のデザインのおかげで悲惨な状況は免れた。ほんのり誰かをほうふつとさせるような薔薇の香りがする。
「やっぱりこれ、アーサーさんのジャケットじゃないですか?」
「き、き、気のせいだろ! なんの証拠があって、そんなこと言うんだよ!」
「すみません。ただ、アーサーさんの香りがすると思いまして」
アーサーは茹で蛸のように顔を赤くしてばかあ! とさけんだ。
ティーバッグしかないじゃねーか、と不満そうなアーサーをなだめ、一緒に紅茶をすする。彼ほど舌が肥えていない菊にはじゅうぶん美味だった。
アーサーと二人で顔を突き合わせるのは、実はそれほど多くない。だいたい騒がしい彼の義弟が一緒で、常識人の菊たちがそれをいさめるという図なのだ。なので、テーブルのうえにはお互いの距離をはかるような沈黙が落ちていた。
「いまさらだけどな、どうしてあんなひどい格好してたんだ? 趣味か?」
「違いますよ。ギルベルトくんの搭乗券を届けるために近道をしたのですが、予想以上の悪路でして」
「また、あいつかよ」
「ええまあ。ですが、あの人もちょっとした悪戯の被害者なのです。おおめに見てあげてください」
ギルベルトを庇うようにいうと、アーサーは小馬鹿にするように肩をすくめた。
「言っておくが、クラウツと組んでもなんの益もないぞ。じゃが芋料理のレシピが増える以外にな」
「そういうことではありません。極めて、個人的な問題です」
「もしかしてお前、また強くなりたいとか思ってるんじゃないだろーな」
菊が顔をそむける。アーサーは不快そうに菊をにらんだ。
「アルがお前を守ってるのに、強くなる必要なんてないだろ。あんな戦いは起きないし、二度と起こさない。金と時間は有限だぞ」
そうではないのです。あのときも同じことを思った。そうではない。ただ、アーサーと対等になりたいから強くなったのだ。望んだのは覇権ではなく、隣りに並ぶ権利だった。彼らと同じことをして、同じように生きたかった。
いくら言葉を尽くしても同盟中もそのあとも、アーサーにはずっと伝わらなかった。周りはアーサーが菊を異様にかわいがったというが、所詮主人がペットに向けるような寵愛だ。最後まで、彼の本当の相棒になることはできなかった。
「Fu*k!」
とつぜん、アーサーがうめいた。どうやら、なにかに気をとられていたらしくカップの側面を触ってしまったらしい。だいじょうぶですか? と立ちあがる菊をおさえハンカチを取り出す。それを見て、菊はハンカチから目が離せなくなった。
「失礼。騒がせた」
そう言ったアーサーも菊の視線をたどり、すぐさま顔を青くした。いや、あの、これはと意味のない言葉をくり返したあげく、叱られる寸前の子どもの顔で菊を見る。
「タイミングを逃しただけで、ちゃんと返そうとは思ってたんだ。べ、別にお前のものが欲しかったわけじゃないぞ!」
「アーサーさん。それは」
「覚えてないのかよ。秘密は薔薇の下で行われる、だろ」
「まだ持ってらしたんですか」
昔の思い出が蘇る。薔薇園の下で、アーサーの唇をとめた。あのことはだれにも言えない。きっと彼が義弟より菊を憐れんだ最初で最後のときだからだ。
「当然だろ! でも次洗ったら返すからな。ずっと借りたままで悪かった」
「いえ。そんなものでよろしければ、そのままお持ちください」
「いいのか!?」
目を輝かせて喜ぶアーサーを不思議に思いながらうなずく。すると、彼は気まずそうに咳払いして菊のポケットを指さした。
「なら、そっちに入ってるのを代わりにやるよ」
「なんでしょう?」
ポケットから出てきたのは菊のものと似た白いハンカチだった。しかし、ひとめ見ただけでもわかる上等な生地にレースがあしらわれたとても高級なものだ。菊が持つ二束三文のハンカチとは比べ物にならない。
「こんな素敵なもの、いただけません」
「素敵とか言うな! べ、別に普通だ」
「もしかして、アーサーさん……」
「ああもういいからちょっと広げて見ろ!」
顔を真っ赤にしたアーサーに促され、ハンカチをひろげるとすみに二輪の薔薇が刺繍されていた。
「ヨーク&ランカスター種。お前にぴったりの薔薇だ」
そういってアーサーが笑った。苦笑でも嘲笑でもない珍しくやわらかな笑みだった。
「ずっと渡そうと思ってたんだが、機会がなかったんだ。本田、心配しなくてもお前はうまくやってる。おれが保障してやるよ」
「……ありがとうございます」
「勘違いするなよ。お前を励ましてるわけじゃないからな! お前が元気なくすと色々大変なんだよ。だから、おれのためだ!」
「ええ。わかっておりますとも」
手のなかのハンカチを握りしめ、どういうことだろう、と思った。ちらりと見えた菊のハンカチは半世紀以上前のものとは思えないくらい、大切に使われていた。彼がものを大事にする性質だから、そんな風に扱ってくれたのか。それとも――
アーサーがわからない。菊が初めて会ったとき、彼は典型的な白人至上主義だった。その考えは付き合いが長くなるにつれ変わってきたとはいえ、やはり彼の根本にはそれがある。
アーサーは、ときどき価値をはかるような目で菊を見る。それがいかに無意識でも、いやだからこそ、しょせん東洋だと言われているようで苦痛だった。彼が東洋の島国をまともに相手するわけがないのだ。
そうわかっているのに、目の前のハンカチはひとときそれを揺るがせた。
菊が自分の殻に閉じこもっているとき、アーサーはなんとはなしにたずねた。
「本田、いま幸せか?」
「ええまあ」
菊は自問を繰り返していたので、気づかなかった。そうか、とうなずいたアーサーが苦しげに顔を手でおおったことも、だれより彼が菊との過去に囚われていることにも。