四百四病の外act 001

 朝。
 弥生が階段を降りるとリビングにはすでに両親がそろっていた。巨体を窮屈そうに椅子に押しこんだ義父が電話口の相手に激を飛ばしていた。弥生はしかめ面で彼の斜め前に座った。

 朝食は、やわらかい春キャベツにロースト・ビーフ。各地から取り寄せた新鮮な果物のヨーグルト・ソースがけ。テーブルの真ん中に置かれたボウルから、シリアルをいくらでもおかわりすることができた。

 弥生はロースト・ビーフの皿を押しのけ、カップに少しだけシリアルを入れた。

「あの相続人か!」

 義父が荒々しくテーブルをたたいた。

「まだ土地を手放さないのか――この役立たずめ! もういい、わたしが行こう」

 彼は電話を切ると、忌々しそうに舌打ちした。

「仕事だ。いまから事務所に行く」
「そんな……今日は弥生の大切な日ですよ」
「仕方ないだろう。大事な用件なんだ」
「ええ。でも、どうにかなりませんか」
「女が口を挟むんじゃない!」

 母親が怯えたように肩を震わせた。

「ごめんなさい」
「先方はうちをよく知っている。もちろん、お前のこともな」

 義父は猫なで声で母の細い手を握った。

「なにも心配ないさ」
「でも、あなたがいないと不安で……」
「参ったな。おれがいなかったら、お前はなにもできないにちがいないね」
「そんなこと考えたくもないわ」

 義父は満足そうに笑うと上着を着て、弥生を見下ろした。

「いいか。今日はママの言うことをよく聞くんだぞ」

 沈黙。
 義父の顔が不快そうに歪んだ。

「反抗的な態度はお互いのためにならんぞ」
「べつに反抗なんてしてない。ばからしいと思ってるだけ」
「なにが?」
「ぜーんぶ」

 弥生は太った男を軽蔑をこめてにらみつけた。

「たった十八の娘が好きあってもいない男と結婚するなんて、安っぽいドラマみたい」
「残念だが、その安っぽいドラマがお前の人生なんだ」
「ごめんだわ」
「……他に男がいるのか?」

 弥生は義父の焦りに気づいた。彼は自分に恋人がいるのを恐れていた。うなずきたい誘惑をやっとの思いで振りはらい、正直にこたえた。

「いないわ。結婚がいやなだけ」
「なら、我がままを言うな。パパたちはお前の幸せを考えているんだ」

 そのとき、部屋の時計が大きく鳴った。八時だ。義父は弥生の額におざなりに口づけると母親をきつく抱擁した。朝にはふさわしくない濃厚なキスを交わし、慌ただしく家を出て行った。

 リビングは、頬を上気させた母親と弥生の二人きりになった。弥生の母は三十半ばを超えていたが、いまだ少女の面影を残していた。だれもが母は変わらないと言う。しかし、弥生はそう思わなかった。

 この儚げな女性は本当に母なのだろうか……?

 彼女はスプーンを止め、目の前の女性を観察した。

 絵本から抜け出してきた妖精みたいにほっそりした身体つき。薄手のカーディガンに長い巻き毛を垂らしている。その柳眉はいつもの通り、過ぎ去った過去を悲しむかのようにひそめられていた。ほんの三年前まで彼女が大声で笑っていたなんて、だれが考えるだろう。

「どうしてあんなひどいことを言うの?」

 母が空気を震わせるような独特な調子で言った。

「わたし、結婚なんてしたくない」
「ママを困らせないで。とてもいいお話しなのよ」
「“都合が”いいんでしょ」
「弥生!」

 弥生はため息を吐いて、母の手を握った。それは彼女の記憶よりだいぶ細くなっていた。

「ねえ。もうパパを忘れちゃった? どうでもいいの?」
「そんなわけないでしょ。パパほど素敵な人、忘れられないわ」
「じゃあどうして……?」
「仕方ないのよ」

 母は悲しげに目を伏せた。

「あの人が亡くなって、どうすればいいかわからなくなってしまった。あなたにはわからないわ」
「子どもだから?」
「いいえ。愛を知らないからよ」

 母は予言めいた口調で断言した。

「でも、いずれわかる日が来る。わたしの子どもだもの」
「男の子なんか好きにならないわ。それに、わたしはママみたいに弱くない」
「そう……。あなたは、パパにそっくりね」
「でしょう。だから、わたしがママを守ってあげる。おじさんなんて必要ないわ」

 母は眉尻を下げ、曖昧に微笑した。彼女は再びか弱い女性に戻ってしまったが、弥生の気分は高揚したままだった。

――ママはパパを忘れていない。変わっていないんだ。

 メイドの女性がキッチンから出て来て、二人に会釈をした。このあと、弥生たちの衣類を洗濯しなければならなかった。

「待ちなさい」

 母は険しい顔になって、メイドを呼び止めた。

「朝食を作ったのはあなた?」
「そうですが」
「弥生はロースト・ビーフが好きじゃないの。以前言ったでしょう」
「すみません」
「難しい仕事じゃないのだから、ちゃんとしてちょうだい。作り直して」
「でも、奥さま……」
「娘にひもじい思いをさせるつもり?」

 弥生はあわててロースト・ビーフの皿を引き寄せた。

「ちゃんと食べるからだいじょうぶよ。行って」

 メイドは何度も頭を下げながら、二階の階段を上っていった。しかし、母はいまだ眉をひそめていた。
 弥生は混乱と失望が交じりあった気持ちでテーブルクロスのしわを見つめた。以前の母は、メイドを持つことに困惑していた。控えめで、他人に命令することはできなかった。冷徹な女主人からは一番遠い人間だった。

 母にとって、いい変化かもしれない。弥生は必死にそう言い聞かせたが、不快感はいつまでも消えなかった。


 昼下がりの公園。
 弥生は広場のベンチに腰かけ、イチイやクヌギが葉を落とすのをぼんやり眺めていた。高校指定バッグが無造作に投げ出されている。

 彼女は学校に行きたくなかった。放課後になれば、家から迎えが来るだろう。その車に乗って、弥生は自分だけの人生を永久に失うことになるのだった。

「結婚なんて、ばかみたい」

 口に出すとますます荒唐無稽な感じがした。弥生は財布にいくら入っているか思い出し、そのお金でどこまで行けるか考え始めた。

 背後で、誰かが枯れ葉の山を蹴散らした。弥生は無視したが、すぐそうすべきでなかったと気づいた。いやらしい笑みを浮かべた少年が、隣りに座って来たのだ。

「よう。弥生」

 安っぽい茶色に髪を染めた男の子で、笑うと乱杭の歯がのぞく。

 彼は中学校時代の同級生だった。家庭の事情で高校に行かず、悪い仲間とつるんでいるという噂だ。弥生に関して下品な賭け事をしているらしく、口説きと中傷の間の言葉をたびたびかけられていた。おそらく、今日も彼の仲間が二人を見張っているにちがいなかった。

「宿題が終わらなくて、学校に行けないのか」
「たとえそうでも、あなたに手助けは頼まないわ」
「保健体育なら、おれは飛び切りのコーチになれるぜ」

 下品な笑い声。弥生は彼らを無視して立ち上がったが、すぐ腕を掴まれてしまった。

「優等生ぶるなよ。街一番の売女の娘のくせに」
「ママは売女なんかじゃない」
「お前の母親は金目当てに、地上げ屋と結婚したんだ」
「――イオン化傾向が一番大きい金属は?」

 少年は戸惑った顔で口を閉じた。

「こたえはKよ。そんなことも知らない人に、ママのなにがわかるって言うの?」
「売女の子どもになるくらいなら、貧乏のがマシだ」

 彼は負け惜しみを言うと、公衆トイレのほうへ引っ張った。その先に待つ野蛮な行為を想像して、弥生は怖くなった。しかし、悲鳴を上げても彼らを喜ばせるだけだ。

 周囲に人気はなく、だれも彼女を助けてくれない。弥生はひとりぼっちで敵に立ち向かわなくてはならなかった――これまでの人生と同じように。

 筋肉質な腕に爪を立てた。少年がぎょっとしてふり返ったところ、弥生は全力で頭突きをお見舞いした。続けざまに股間に蹴りを入れ、彼が内またでうずくまるのを仁王立ちで見下ろした。

「体育のコーチは必要ないみたい」

 少年の仲間が不満そうに野次を飛ばした。ショーが期待外れだったことにがっかりして、一人また一人と側道へ消えていった。

「覚えてろよ」

 少年は真っ赤な顔で弥生をにらんだ。しかし、今度こそ弥生が彼を追いかける仕草をすると這う這うの体で土手を上って行ったのだった。

「ほら、男の子って最悪」

 弥生はため息を吐いて、土手を見上げた。勝利の余韻を味わおうとしたが、代わりに胸に広がったのは果てしない虚しさだった。

――いったいなにをしているんだろう……。

 そのとき、どこからか若い男の笑い声が聞こえた。イチイの太い枝に腰かけ、こちらを見下ろしている。
 弥生は驚いて目を見張った。何故なら、男は時代錯誤な狩衣を着ているうえ、身体が透けて見えるのだ。

「おばけ!」

 弥生は思わず悲鳴をあげた。

「小娘、おれが見えるのか?」

 男は意外そうに首を傾げた。

「しっかり見えるわよ。どんな手品か知らないけど、ここで披露しないほうがいいわ。ジョギング中のお婆さんを心臓発作で殺したくないならね」
「おれはお化けでも手品でもないさ」
「じゃあなに?」
「名刀“三日月宗近”の付喪神だ」
「ふうん……」

 弥生は混乱して米神を押さえた。ついに自分の頭がヘンになったのか思ったのだ。しかし、同時に奇妙な高揚も感じていた。

「わたしは弥生よ。こんにちは、三日月」
「こんにちは?」
「人間の挨拶よ。いまはお昼だから、“こんばんは”じゃ早すぎるもの」
「――お前は、肝が据わった女子だなあ」

 三日月は哄笑すると、音もなく地面に降り立った。優雅な歩調でベンチの前にやって来て、弥生の前にかがみこんだ。三日月模様の虹彩に自分の顔が映っている。弥生はあまりの緊張に息をのんだ。畏怖を覚えるほど、三日月は美しかった。

「付喪神って、刀から離れても平気なの?」

 目を逸らすため、どうでもいいことを尋ねた。

「平気じゃないな」
「じゃあ、本体が近くにあるってこと?」
「ない。どこかに行ってしまった」
「どこかに行った!?」
「ああ」

 弥生は何度か息を吸ったり吐いたりした。

「ええと、つまり――それってよくあることなの? 刀に足が生えてどこかに消えちゃうとか……」
「人の子は愉快だなあ。よいか。ふつう、刀は歩かない」
「知ってるわよ!」

 弥生はついに癇癪を起こした。

「わたしがききたいのは、刀の付喪神が刀を失くしても平気かってこと」
「心配しているのか?」
「してない!」
「そうか。お前は優しい子だな」
「してないってば!」

 しかし、三日月は聞いていなかった。穏やかな目で弥生を見つめている。そんな風に見られたのは初めてで、弥生は狼狽してしまった。

「付喪神とその本体は密接な関係にある。審神者と契約していない付喪神が本体から離れていると徐々に弱っていき、やがて消滅する」
「それって大変なことじゃない」
「何故?」
「だって、消えちゃうのよ。未来がなくなるってことでしょう」
「どうでもいいさ。おれは消滅をおそれない」
「なんでそんなこと言うの!?」

 弥生は腹が立って仕方なかった。

「いいわ。わたしが契約する」
「だれとだれが?」
「わたしとあんた――三日月宗近が!」

 やけくそになってさけんだとたん、心臓が高鳴った。血管を伝って、熱湯が全身に行き渡るようだ。と同時に、三日月の狩衣から鮮やかな燐光が舞い、蛍のように散った。

「参ったな」

 三日月は眉尻を下げて、両手を見下ろした。彼の身体はもう半透明ではなく、実体があった。陽の光が、狩衣を着た男の影を長く伸ばしていた。

 三日月は、自分のなかに小さなオレンジの光が瞬くのを感じる。それは、彼の審神者――弥生の理力だった。

「身体が熱い……」

 弥生は両手で頬を押さえると、うかがうように三日月を見上げた。

「怒ってるの?」
「それはおれの仕事ではない」

 三日月は困った顔で手を差し出した。弥生がまごついていると微笑して、立ち上がらせてくれた。

「さて、主。これからどうする?」

 繋がった二つの手から感じるのは、いままで知らなかった類の羞恥だった。しかし、不思議と不快ではない。弥生はできるだけ素気ない口調で言った。

「もちろん、あんたの本体を探しに行くの!」