幸いなことに、十月の海岸はひと気がなかった。ときどきジョギング中のおじさんにすれ違ったが、鼻白んだ顔で三日月の恰好を見るだけで、問題は起きなかった。
三日月は浜辺に続く階段に座って、忙しない弥生を見つめた。
「刀剣は穢れに弱い。契約期間中、審神者はいくつかの習慣を避けねばならない」
「いくつかの習慣?」
「たとえば……任期中に身ごもる審神者は少ない」
「そんなことしないわよ!」
弥生はあわてて三日月をふり返った。しかし彼は穏やかに微笑むだけだった。からかわれたのだ。弥生は不機嫌になって、腰に手をあてた。
「ねえ、あんたの本体よ。一緒に探して」
「こんな浜辺に、三日月宗近があるのか?」
「ふつう、ないと思うでしょ」
「ああ。思う」
「そこが犯人の狙いなの!」
弥生はひとさし指を振った。
「あんたは、この辺りで刀がないことに気づいたって言ったわよね。誰でも、何か盗んだ人はその場から立ち去ると考える。そのうえ、こんな見晴らしのいい海岸じゃ……でも、この港は海外への船も出るのよ。盲点をついて、出港までの間コンテナに隠している可能性もじゅうぶんあるわ」
「面白い考えだな。だが、おれの姿も見えない人間がどうやって刀を盗む?」
「……さっきのおじさんには見えていたじゃない」
「契約したからだ。刀を失くしたのはそれより前で、ただ人はおれを感じることもできなかった」
「ああ、信じられない」
弥生はあきれて天を仰いだ。
「つまり、こういうこと? あんたは自分の魂が宿る刀を”うっかり”失くした」
「その通り」
「なんでそんなに落ち着いていられるの! 命に関わる問題なのよ」
「言っただろう」
三日月は困ったようにあごをかいた。
「おれは死んでも構わないのさ。それより、お前に興味がある」
「わたし?」
「そうだ」
「おあいにくさま」
弥生はおおげさに肩をすくめた。
「わたしは、ただの女の子よ」
「ただの女子は、付喪神相手に啖呵を切るのか?」
「それは夢中だったから!」
弥生は思わずさけんで、三日月の含み笑いに気づいた。自分をからかって遊んでいるのだ。弥生は再び混乱して、どうすればいいかわからなくなった。そんな風に扱われたことがなかった。親しい友人など、いままで一人もいなかったから……。
彼女はわざとらしくせき払いをして、横目で三日月をうかがった。
濡れ羽色の髪にハート形の輪郭。顔のパーツがこれ以上なく完ぺきな位置に収まっている。彼は作り物のように穏やかだった。
弥生は三日月を自分と同じくらい慌てさせたかった。
「わたし、結婚するのよ」
「結婚――祝言か。おめでとう」
「全然めでたくないわよ」
弥生は期待した効果を得られずため息を吐いた。
「わたしはまだ十八よ。やりたいことがたくさんあるのに……早すぎるわ」
「平安の世では、十代半ばで結婚するのが一般的だったぞ」
「平安時代ではね。わたしは現代(いま)の話しをしているの」
「わかった。ではいまの話しをしよう」
三日月は無邪気に微笑んだ。
「かわいそうなのは自分だけか? 先ほど公園にいた男(おのこ)、昼間から学校にも行かず、なにをしていたのだろうな」
「あの子はしょうがないのよ。お金がなかったから……」
「そうか。では、お前もしょうがないな」
弥生の頬がさっと赤くなった。
「あんたなんか、だいっきらい!」
「そうか」
三日月は、相変わらず底の見えない微笑を返すだけだった。
夕暮れ。
空と海の境が橙色に染まっていた。遠く、ぽつりぽつりと漁火(いさりび)が点き、薄青の波間を明るく照らしている。
弥生はもとの浜辺に戻ってくると、数時間前と同じ場所に三日月を見つけて息をのんだ。視線をそらし、意味もなくその場の砂を掘り返した。しばらくののち、彼のいる階段へ近づいて、乱暴に隣りに腰かけた。
「なんで死にたいの? 神さまなんでしょう」
三日月は弥生の無礼な質問にも怒らなかった。その代わり、ようやく笑みを消した瞳で弥生を観察した。
「神は死なない」
三日月は冷ややかな口調で言った。
「『おれ』が死んでも、“三日月宗近”の付喪神は記憶を引き継ぎ、永遠に存続する」
「永遠に……?」
「おれは生きるのに飽いた。そろそろ次に任せる番だ」
「でも、それってヘンだわ」
弥生は唇をとがらせた。
「だって、“三日月宗近”があんたじゃなくていいなら、『あんた』がいる意味は?」
「おれ?」
「そう。『あんた』が生きる意味はどこにあるの?」
三日月は思ってもみないことを言われたというように瞬きした。
「さあ……考えたこともなかったな」
そして、水平線を見つめたまま、黙りこんでしまった。
長い沈黙。
弥生は緊張した様子で、三日月の横顔を盗み見た。彼はなにか考えこんでいて、弥生の視線に気づかなかった――もしくは、意図的に無視していた。
「ねえ、三日月」
弥生の声は子どものように震えていて、自身なさげだった。
「わたしに何か言いたいことがあるんじゃない?」
「べつに」
「いいえ。あるはずよ」
弥生は食い下がった。
「つまり、わたしは優しいから、ごめんと言えば許してあげるってこと」
「おれは、お前に許されなくても構わない」
「あっ、そう!」
弥生は必死に三日月の無礼な態度に腹を立てているフリをした。内心、ぎくしゃくした空気を元に戻したくてたまらないのだ。しかし、その方法を知らなかった。
「主こそ、なにか言うべきことがあるんじゃないか?」
「わたしが?」
「おれは優しいから、ごめんなさいと言えば許してやるぞ」
「三日月ったら……!」
まるでそこに場を切り抜ける正解が書いてある風に、浜辺の砂をにらみつけた。しばらくののち、唇をきつく噛んで、蚊のなくような声でささやいた。
「――ごめんなさい」
「うん」
三日月は穏やかに微笑むと弥生の髪を優しくなでてくれた。彼の顔を夕陽が照らし、複雑な陰影を描いている。
弥生はそれ以上三日月を見つめることができなかった。とつぜん湧きあがった感情のせいで、彼が不思議なほどまぶしかったのだ。
それから二人は肩を並べて、太陽が水平線に沈んでいくのを眺めた。
完全に日が沈むと今度は海沿いの街に灯りが点り、赤や緑のネオンが海面に輝くのだった。弥生はすっかり今日の用事を忘れ、三日月と見る美しい景色に酔いしれていた。
それに最初に気づいたのは三日月だった。
彼は弥生の薄い肩を抱き寄せ、太刀に手をかけた。ライトを消した黒いレクサスが減速し、浜辺に続く道路で停車した。レスラーのような体格の男たちが、示しあいながら二人を囲いこんでいく。
黒服のひとりが弥生に触れようとしたときだ。三日月は後ろ手に男の鳩尾を突き、素早く刀を引き抜いた。
頭上で三日月が輝いている。彼は困ったような笑みを浮かべながら、男の首に白刃をつきつけた。
「即席とはいえ、主の身は守らねばならんのでな」
「待って!」
弥生はうずくまる男の横にしゃがみこんだ。
「このひと、おじさんの会社のひとだわ」
「知り合いか?」
「うん。直接話したことはないけど……」
「お嬢さん」
彼らを取り囲んでいたうちのひとりが、硬い声で呼びかけた。
「社長と奥さんが心配なさってますよ。なんで今日の見合いを欠席したんですか」
「それは……」
男は三日月を見て鼻を鳴らした。
「ずいぶん色男ですね」
「勘違いしないで。このひとは関係ないわ」
「――と、お嬢さんは言っているが……どうなんだ」
「ふむ」
三日月はあごに手をあてて、何か考えているようだった。ビー玉のような瞳が弥生を映し、いたずらっぽい光が宿った。
「おれは彼女に惚れている。だから、結婚はやめてほしい」
「三日月、冗談はやめて!」
「やっぱりな」
男は酷薄に笑って、彼の腹に拳をたたきこんだ。三日月が低いうめき声をあげてひざをついた。
「このひとは関係ないって言ったでしょう! ひどいことをしないで」
「と言ってもねえ……じゃあ、この男が勝手にお嬢さんにいいよっているだけですか?」
「――ええ」
「それは大変だ。二度とお嬢さんに近づけないようにしてやりますよ」
「どうして!?」
弥生はようやく男の唇の端が痙攣しているのに気づいた。彼は弥生がなにを望んでいるか知っているのだ。そして、わざとごちそうを目前で引っこめる真似をしてサディスティックな欲望を満たしているのだった。
「おれだって無関係な人間を痛めつけたりはしない。さて、お嬢さんと彼はいったいどんな関係なのかな」
――嘘つき! 卑怯者!
さまざまな罵り言葉が弥生の頭のなかを駆け巡った。しかし、そのどれもが喉の奥につまって消えた。結局、どうしようもない無力感だけが残り唇を噛んだ。
「連れていけ」
「待って!」
だれも弥生の言葉を聞かなかった。少女の腕をつかみ、路肩のレクサスに無理やり引っ張っていく。抵抗して振り回した手が、男の頬に傷をつけた。
「いてえ!」
男は反射的に拳を振りあげ……下ろすことはできなかった。三日月が背後から襲いかかり、首を掻っ切る寸前で刃を止めたのだ。肩にあごを載せ、小声でささやいた。
「好きなだけ主を甚振るといい。いずれ首級になると思えば、寛大な気持ちになると思わんか」
舌がゆっくり唇をねぶる音――あまりにエロティックな……。
男たちは、反抗的な三日月を許さなかった。弥生の見ている前で彼を手ひどく殴った。暴行が終わったのは、三日月を入れる別のバンが到着してからだ。屈強な男が両脇につき、彼の頭をつかんで引っ立てて行く。
「待って……」
弥生は涙声で三日月を呼んだ。しかし、喉が渇いて次の言葉が出て来ない。起きたことが残酷すぎて、言うべきことが見つからなかったのだ。
三日月はやわらかく微笑した。へし折れ、腫れあがった指を唇にあてた。そして、彼の姿はバンに押しこまれて見えなくなった。
テールランプの赤い光が遠ざかる。弥生は車が暗闇にまぎれてもなお、彼が消えた道を見つめ続けていた。
自室。
弥生はやわらかい枕に顔をおしつけ、肩を震わせていた。
ピンクにユリ模様の壁紙に星型の照明。壁をくぼませて作ったアルコーブタイプのソファには、かわいらしい人形が何体も飾られている。全て、義父が彼女のために設えたものだ。
弥生はこの女の子らしい部屋が大嫌いだった。
ネグリジェを着た母がソファに寄り掛かったまま、ため息を吐いた。
「どうして今日来なかったの? パパの顔に泥を塗ったのよ」
「ここから出して。三日月のところに行きたい」
「……学校をサボって、一緒にいた人ね」
母は頭痛をやわらげるように額に手をあてた。
「平日からブラブラして、いったいなんのお仕事をしているのかしら。そんな人は、あなたを幸せできないわ」
「三日月とはそんなんじゃない――友だちなの」
「彼はそう思っていないかもしれないわ」
「ありえない! むしろわたしが彼を……」
弥生は自分の言葉に混乱して首を振った。そんなのは気のせいだからだ。
「ママ、いい加減目を覚まして。おじさんがどんな仕事をしているか、ちゃんと知ってる? ついさっき、あのひとの部下が三日月になにをしたかは?」
「……知りたくもないわ」
「ママ!」
「パパだって、好きで命令しているわけじゃない。荒っぽいことも必要なの――仕方ないのよ」
「仕方ない?」
弥生は顔をあげて、母をにらみつけた。
「いままで、自分のことはぜんぶ自分でするものだと思っていた。でも、三日月はわたしを守ってくれたのよ!?」
「ママだってあなたの幸せのために頑張っているわ」
「それが結婚? わたしはママの分身じゃない!」
「ひどいこと言うのね」
母の瞳に涙が盛り上がってく。弥生はショックを受けたが、言った言葉は取り消すことができなかった。
「ごめんなさい……」
「あなたは、だれのおかげでいい暮らしができるかわかってないのよ」
「――でも幸せじゃない」
頬に衝撃が走った。母が手を振り上げたまま、真っ赤な瞳でこちらをにらんでいる。
その指には大粒のダイヤ。紅玉のネックレスとサファイアの耳飾りが照明によって輝いた。
弥生はようやく、母の身なりが以前と全くちがっていることに気づいたのだ。
「なるほどね」
皮肉っぽい笑い声。
「たとえ貧乏でも、二人暮らしのときのほうがわたしは幸せだった。けど、ママはちがったみたいね」
「そんなつもりじゃないわ」
「じゃあどういうつもり? パパが死んで、ずっと二人で支えあってきたじゃない。いまさらどうしてあんな男と結婚するのよ」
「だれとだれが支えあってきたって言うの? あなたは口さがない噂からわたしを守ってくれた? お父さんがいない惨めさや貧しさからいつ守ってくれたのかしら? あなたはお父さんと一緒で、いつも口ばかり。いままで一人で我慢して来たのよ。やっとつかんだ幸せを壊さないで!」
「……わかったわ」
弥生はツルバラの毛布をきつく握った。
「でも、覚えてる? ここに引っ越す前のお隣りさんは母子家庭で、高校に行けなかった」
「仕方ないのよ。お金がないって不幸だわ」
「そう」
うなだれて、何度も首を振った。
「でも、幸せそうだった」
「見せかけてるだけ」
「その通りかもしれない。でも、昔のママはそんな言い方をしなかったはずよ」
弥生は低い声でつぶやいた。
「行って。放っておいてほしいの」
「……弥生」
「お願いだから!」
母はしばらく声をかけていたが、弥生が返事をしないので、ため息を吐いて部屋を出た。