四百四病の外act 003

 木目調のレコードプレイヤーが、ビートルズのヘルプ!を流していた。

 二十畳ほどの和室には巨大なアクアリウムやシャワールームが備えつけられている。ガラス戸が半開きで、黒曜石の床から何か引きずったような染みが畳に伸びている。
 和室の中央、狩衣の男がずぶ濡れで縛られていた。

「よくも弥生に手を出したな」

 赤ら顔の義父が正面のソファにふんぞり返って座っていた。チーズたっぷりのピザを口に運び、脂っぽい指をひじ掛けにこすりつけた。

「お前のようなやつが、あの女性(ひと)や娘をさらっていく。まだ若くて美しい男が……」
「野蛮な人間だ。お前はいつも自分の物差しで幸せを測っている」

 三日月は腫れた目を細くして、男の額のあたりを見つめた。

「ふむ。その女子と出会ったのはお前が先だったのだな。だが、彼女は別の男と選んだ」
「あの――口先だけの――ペテン師!」

 義父は唾を飛ばしてさけんだ。

「やつは現実を見ていなかった。よく回る舌と顔を使って、あの女性を奪った。だが、もうやつはいない。彼女はおれのものになった!」
「お前が選ばれなかったのは顔のせいではない。卑しい性根のせいだ」
「口には気をつけろ。若造」

 三日月は気弱なウサギの微笑を浮かべた。

「もう気づいているだろう。あの美しい女はお前を愛していない。そしてその娘も。哀れだなあ」
「妻がおれを愛していないことくらい知っている。だが、それで構わない。彼女を手に入れることができたのだから……」
「浅ましい人間め」

 三日月が眉をひそめた。あごを伝って水滴が落ち、床の水たまりで跳ねた。ソーセージのような指が、彼の頤を掴んだ。

「あれほど痛めつけても、全く堪えていないようだな――人を矯正するのが力だけではないことを教えてやる」
「……芸のない男よ」
「減らず口もいまのうちだ」

 男はズボンのチャックを降ろし、三日月にのしかかった。

「お前から徹底的に男の尊厳を奪ってやる」

 アクアリウムのなかで、青金のヒレを持つグッピーが元気よく泳いでいた。
 しかし、後ろからアロワナが迫り、一口に飲みこんでしまう。そしてそのまま、何ごともなかったかのように泳ぎ続けるのだった。


 弥生は観葉植物の影からホールをうかがい、だれもいないとわかると開いたエレベーターに飛び乗った。

「三日月……」

 握った拳を開けると黄金色の小さなカギが現れた。母親にたたかれたとき、掠め取ったのだ。先ほどから皮膚の下が刺されるように痛かった。だれに教えられなくても、それが三日月の痛みだとわかっていた。

「どうか無事でいて」

 彼女は早口でつぶやき、扉が開いたとたん廊下に飛び出した。三日月がいるのは、最上階の一番奥――賓客をもてなすとき使う客間だ。

 全面ガラス張りの壁に、吹き抜けの天井。中心のホールから、各部屋に続く廊下がクモの巣状に伸びていた。

 弥生は迷わず走り出し、やがて困惑した顔で立ち止まった。奥に進むにつれ、不思議な白い霧が立ちこめて来るのだ。
 さらに床のそこここに黒服の『社員』が倒れていた。身体が氷のように冷たい。弥生は手首を掴み、脈に異常がないことを確認すると再び走り出した。

 霧はますます濃くなっていく。比例するように気温も下がり、いまや息を吐く度、水蒸気がきらきらと輝くのだった。

 しばらくののち、弥生は立ち止まった。

 客間の扉は開け放たれていて、なかから太い氷柱が廊下の天井に向かって伸びていた。部屋のとば口で、太った男が腰を抜かしている。ズボンがひざまで下がり、柄物のトランクスを露出しているのを見て、目の裏が燃えるようになった。

 弥生は三日月の身に起きたことを理解したくなかったのだ。しかし、無残に放り出された狩衣を見ると、耐え切れずその場で吐瀉した。

 それは交接というより、交戦のあとのようだった。

 黒と金の壁紙は無数の刀によって切り裂かれ、そこら中に赤い手形が浮かび上がっている。部屋の中心に、繭に似た巨大な氷のかたまりが鎮座していた。

「行くんだ」

 弥生はツバをのんで、氷塊のなかに入った。

 一部台座のように高くなっていて、半裸の三日月が倒れていた。
 肩の黒い小手から首筋、胴に至るまで、肉色の痣がまだらに浮き上がっている。それは下半身に向かうにつれ濃くなり、腰骨のあたりがいびつに隆起していた。

「まさか……」
「触れるな」

 三日月が薄目を開け、弥生を見上げた。

「穢れるぞ。身体を穢された恨みが、霊力を暴走させている」
「……どうすればいいの?」
「放っておけ。じき、消滅する。そうすれば全てもとに戻るさ」
「どこがもと通りなの? 死んじゃうのよ!?」
「言っただろう。神は死なない。記憶を継承し、永遠に存続する」
「ばか!」

 弥生はたまらなくなって、三日月の両頬に触れた。彼の痣が瞬く間に弥生の手を這い上がり、腕を浸食していく。三日月が驚いたように身じろいだが、決して離さなかった。

「気づいてないの? あんたは自分の生きる意味を見つけたかった。だから、わたしを助けたの」
「神に個の意志などない。連綿と続く記憶が“おれ”であり、おれ自身もまた未来に続く“おれ”の通過点でしかない」
「わからずや! あんたは、生きる理由を作りたかったから……」
「思いちがいだ」

 三日月が冷ややかな口調で切り捨てた。
 少しの間。
 彼は弥生を諭すようにうなずいてみせた。

「この部屋から出て、しばし待て。数刻のうち、つぎの三日月宗近がお前のもとに向かうだろう。見苦しいものを見せたが、あと少しの辛抱だ。簡単だろう」
「全然簡単じゃないわよ!」

 弥生は癇癪を起して、三日月の頬を引き寄せた。お互いの鼻先が擦れ合う距離だ。三日月は目をぱちくりさせ、弥生を見上げた。痣に侵されたまろい頬から、ぼた雪のような涙が流れ落ちた。

「わたしを助けてくれた三日月はあんただけなの。代わりなんていない。あんたが死んじゃったら、どうすればいいの?」
「主……」
「生きると言ってちょうだい。理由がないならわたしがなる。あんたに、わたしをあげるから」
「おれに?」
「そうよ!」

 一瞬、三日月の顔が能面のようになった。彼は弥生を穴が空くほど見つめ、やがて目をそらした。

「――離せ」
「いや!」
「勘ちがいするな。身体を起こすだけだ」

 弥生がしぶしぶ後ずさると、彼は起き上がって自分の手のひらを見つめた。小手のすき間から、爛れた痣がのぞいている。しかし、きつく拳を握ったとたん、痣は引き潮のように消えた。

「すごい……」

 弥生は立ち上がろうとする三日月に肩を貸し、歩くのを手伝った。彼が手をかざすと、その場所から穴が空くようにして、氷の繭が溶けた。

 部屋のすみで、未だ間抜けな格好の義父がうずくまっていた。彼は支え合う二人を見るや、怒りが再燃したようだった。

「弥生から離れろ! 化け物なんぞに娘をやれるか!」

 三日月は億劫そうな顔でため息を吐いた。

「まだいたのか」
「娘に、お前がどこで啼いてどんな風によがったか教えてやる」
「構わん。しょせん器の話しだ」
「聞きたくない!」

 弥生は涙目で義父をにらみつけた。

「あなたは、獣(けだもの)よ」

 義父は目を見開き、その場に崩れ落ちた。弥生は彼を口汚く罵りたくてたまらなかった。弥生の大切な人をこの世で一番惨い方法で痛めつけた。義父はもっと苦しむべきだ……。

 しかし、だれかが弥生の袖を引っ張った。穏やかな顔の三日月が首を横に振ったのだ。

「どうして……? 許せないわ」

 三日月の目は、まっすぐ弥生だけを映していた。三日月模様の入った美しい瞳――恨みや憎しみの念は感じられなかった。弥生は急に自分が恥ずかしくなった。

「わかったわよ」

 義父を罵る代わり、落ちていた着物を三日月にかけた。そして再び彼を支え、客間を出て行ったのだった。

 部屋のすぐ外で、ネグリジェ姿の女性が立ち尽くしていた。やわらかな巻き毛のほっそりした女性。弥生は初めて、母の目じりに皺があるのに気づいた。

「弥生! いったい……」

 そこで、彼女は三日月を見て頬を赤くした。

「この方はどなた? なかでなにがあったの?」
「ママ。大事な話しがあるの。これからは自分自身でやっていく。家を出て、お世話になったぶんのお金を返すわ」
「家を出る?」

 母は怯えるようにくり返した。

「何故そんな意地悪を言うの?」
「意地悪じゃないわ。ママのこと、大好きよ。でも、ママはわたしが想像していたよりずっと強いの。そして、わたしたちの幸せの形はちがうのよ」
「そんなに結婚がいや? なら、パパにお願いして延ばしてもらいましょうよ。だから出て行くなんて言わないで」
「子の幸せを願うのは親の性だが、幸せは子ども自身が掴み取るものだ」

 三日月が穏やかに微笑んだ。

「――ちがうか?」

 母は動揺したように指輪を回した。しばらく、あちこちに視線を飛ばしていたが結局、恨めし気な顔で三日月をにらんだ。

「あなたが娘をそそのかしたのね」
「ちがうわ!」

 三日月は弥生に首をふり、後ろに隠してしまった。

「よいか。お前の娘は永久にお前のものではない。いずれ、どこかの男が彼女を奪っていくだろう」
「わたしの娘なのよ!」
「だからなんだ? すでに彼女はお前のものではなくなった」

 三日月は母にだけ見える角度で、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。

「――おれのものだ」
「やめて、弥生……わたしを置いていかないで」

 弥生は三日月に肩を貸し、廊下を進んでいた。ようやくエレベーターホールが見えるくらいになって、客間をふり返った。母が壁にすがるようにしながら、部屋のなかに消えていくところだった。

「どうした?」
「なんでもないわ」

 弥生は寂しさを押し殺し、首を振った。
 しかし、三日月が片腕で抱き寄せてくれたので、思わず涙がこぼれた。それはやがて慟哭に代わり、いつまでも三日月の狩衣を濡らし続けた。