四百四病の外act 004


 大浴場。
 弥生は腰にタオルを巻いた三日月の背中を流していた。唾液や精液で汚れた身体を一刻でも早くきれいにしてやりたかったのだ。パフ・スリーブを肩までめくり、ボディ・ブラシに石鹸を擦りつけた。

「さっき、ママになんと言ったの?」
「当たり前のことを」
「ふうん……」

 弥生は勇気を出して、考えたことを打ち明ける準備をした。

「ねえ、三日月。審神者って、なにをすればいいの?」
「歴史の改変を防ぐのだ。そして、刀剣たちの主となって彼らを正しく導く」
「刀剣たち? つまり、三日月以外にも付喪神がいるってこと?」
「ああ。たくさんいるぞ」
「――わたしにもなれるかしら?」

 一瞬、三日月の身体が強張った。

「残念ながら」

 弥生をふり返って、眉尻を下げた。

「お前は、このジジイひとりでガマンしなければならないな」
「べつに。全然残念じゃないわ。三日月がいい人だから、他の付喪神とも友だちになれるかもしれないと思っただけ!」

 そのとき、全身にしびれるような痛みが走った。あんまり激しかったので、椅子から崩れ落ちてしまうほどだ。咄嗟に筋肉質な腕が伸び、彼女を抱きとめてくれた。

「すまない。つらい思いをさせる」
「どうして謝るの?」
「主の苦しみはおれのせいだからだ。契約期間中、審神者に女犯を命じるほど、刀剣は穢れに弱い。おれ自身が犯されたせいで、浄化しきれない穢れが逆流しているのだろう。完全に清めるには時間が必要だ。いままでは、すぐ次の“おれ”に交代していたんだがな」
「やめて!」
「何故? “おれ”はもういつ消えるかわからぬ。代さえ変われば、穢れは払われ、お前は苦しい思いをしなくてすむのだ」
「ダメ。とにかく、ダメなの」

 三日月は口の端を痙攣させた。

「つまり、お前のためにしてほしくないのか?」
「うん。わたしのために、そうしないでほしい」
「そうか……」

 弥生は目を伏せ、三日月の腕をなぞった。拘束していただろう義父の手の痕に、盛り上がったみみず腫れ。どこもかしこも傷つき、血を流していた。

――わたしのせいだ。

 弥生は罪の重みに耐えられず、彼の腕に額を押しつけた。

「ごめんなさい」
「お前は悪くないよ。それより、あの男を許してやれ」
「おじさんのこと?」

 戸惑うような声。

「……難しいわ」
「そう言うな。あの男なりにお前を愛しているのだ」
「わたしは三日月みたいに寛大になれない」
「おれは寛大ではない。全て、どうでもよいことだからだ」
「そう」

 弥生は悲しげに微笑んだ。

「でも、わたしにはちがうの。三日月が死んじゃうなんてぜったいにイヤ。そのためなら、なんだってできる」

 そして、裸の三日月を守るように抱きしめた。今度こそ、彼は岩のように固まった。混乱して、どう振る舞えばいいかわからないみたいだった。
 腕を上げたり下げたりして、結局、弥生を引き離すほうを選んだ。

「どうして……?」
「この器はもう穢れている」

 三日月は低い声でこたえた。

「いままで器などどうでもいいと考えていた。だが、ちがったのだな。お前に触れるなら、新しい器がよかった」
「意外とロマンティックね」
「ろまんてぃっく?」
「すばらしいってこと!」

 弥生はすばやく唇を押しつけた。

「三日月が誰となにをしようが関係ないわ。少なくとも、わたしの初めてはぜんぶあんたのものよ――それで満足してちょうだい」
「もちろん。満足するさ」

 三日月は弥生を抱き寄せ、ふっ切れたように笑った。


 大浴場の窓に、風呂につかる青年と彼の腕に額を寄せる少女が映っていた。
 二人は湯船の内と外で背中合わせになりながら、ぽつりぽつりと身の上について語った。たいてい三日月は聞き役で、弥生に温かい慰めをかけてくれた。そして会話が途切れたのを見計らって、静かな声で尋ねた。

「なにか望みはあるか?」
「望み……?」

 弥生は訝しげに首をひねった。

「なにもないわ」
「いいや。あるはずだろう」

 三日月の瞳は丁寧に磨かれた鏡に似て、弥生の気持ちを見通しているようだ。弥生は目を閉じ、よく考えることにした。

「どこかに行きたいわ――遠くへ」
「連れて行ってやろう」

 お湯のおかげで温もった指が弥生の手をなでた。三日月は穏やかで思いやりがあり、弥生よりずっと強い。彼と一緒にいると、守られることの心地よさを味わうことができた。

「好き」

 そして、ようやくそれが本心だと気づいた。


 早朝。
 弥生はボストンバッグを両手に持って、空いた車内を軽やかに進んでいた。窓から朝日がさしこみ、えんじ色のボックス席をやわらかく照らしている。弥生はすぐそこに座ることに決めた。

「三日月。あそこの席がいいわ!」
「あいわかった」

 三日月はついて来ようとしたが、着慣れないダッフルコートがひじ置きにひっかかって動けなくなってしまった。ようやくコートを外すと今度はカーディガンの毛糸がからまり、無理やり引きちぎろうとした。

「ダメよ! そんなことしたら破れちゃう」

 弥生は引き返して、彼の前にひざまずいた。

「おしゃれは苦手でな、いつも人の手を借りていた」
「でしょうね。三日月って器用だか不器用だかわからないわ」
「おれもわからん」

 三日月の真面目くさった顔に思わず吹き出した。すると彼も弥生を見て優しく頬を緩めるのだった。

――三日月が好き。だれよりも好きなんだわ。

 そのとき、車両を隔てるドアが空き、アディダスのスポーツバッグを持つ少年たちが数人、こちらに歩いて来た。彼らは弥生を見て、お互い小突きあった。

 弥生は全く気にならなかった。うわさ話しは拳や石ころとちがって、彼女を傷つけないからだ。弥生はいつも通り、彼らを歯牙にもかけなかった。しかし、今日は三日月が一緒だった。

「売女の子どもが男といる!」

 弥生の背中が強張った。

「ついに商売を始めたのか?」
「――あっち行って」
「なんで? こいつにはやらせるくせに」
「そんなんじゃないわよ! 放っておいて。姿を見せないで」

 大声をあげると彼らは余計囃したてた。ハイエナの狡猾さで、三日月が彼女の弱点だとわかったのだ。日ごろすまし顔の弥生が取り乱すのが面白くてたまらなかった。
 なかでも、短髪をワックスで後ろに流した少年はしつこかった。

「今度うちに来いよ。きっと楽しめるぜ」
「二十秒ぐらい?」

 少年が間の抜けた顔でふり返った。

 黒いフレームのメガネをかけた男――三日月がやわらかい笑みを浮かべていた。紺のダッフルコートにネズミ色のズボン。生成のカーディガンからは黒いネクタイがのぞいている。彼はビスク・ドールのように美しかったので、だれもその口から下品な冗談が飛び出たとは信じられなかった。

「気の惹き方が間違っているぞ」

 三日月は諭すような口調で言った。

「主はそれほど聡いほうではないからな」
「なにが言いたい」
「好きなら、そう言えばいいのだ」
「冗談じゃない!」

 今度は仲間たちが歓声をあげた。少年は彼らをにらみつけたが、あまり効果はないようだった。結局、行くぞ!と怒鳴って次の車両に去っていった。すれ違いざま、弥生にわざと肩をぶつけた。

「後悔するぜ」
「あんたこそ。告白しなくていいの?」

 弥生は三日月の温和な顔を見上げた。臆病な自分は消え、再び強い弥生が戻ってきていた。

「貧乏だったママが、開発に来た地上げ屋のおじさんと再婚したの。だから、みんなから嫌われてるのよ。色々問題があるママだけど、その点において恥ずべきところはないはずだわ――あと、わたしにも」
「ああ。主は立派だった」
「三日月もね……」

 少しの間。

「庇ってくれてありがとう」

 三日月は無言で、弥生の髪をなでてくれた。
 少年たちが去ると、車両は再び二人だけのものになった。
 弥生は小さな子どものようにはしゃいで窓の外を見つめていた。朝日を浴びて輝く海に、コの字型の入り江。さん橋には白いボートが何隻も停まっている。

「だれかと遠出するなんて……パパが生きていた頃以来だわ」
「パパ?」
「そう。ジョークが上手くて、あの人と一緒にいたらみんな笑顔になってしまうの。わたしもパパが大好きだった」
「母親はちがったみたいだな」
「ひどいことを言うのね」

 弥生は正面のボックス席にいる三日月をにらんだ。

「でも、その通りよ。ママは一人ぼっちに耐えられなかった。愛された過去では満足できないの。いつも一緒にいられるなら、唯一の相手でなくても構わないのよ」
「お前はちがうだろう」
「ママに言われたの。わたしが愛を知って、それを失う日が来たら、どうすればいいかわからなくなるって。そのときは理解できなかったけど、いまならわかる気がする」
「どういう意味だ?」
「わたしもママのようになるかもしれない。できるだけ強くありたいけど、そうなれない可能性もある――たとえば」

 弥生は三日月をじっと見つめた。

「あんたが消えたら、あんたのあとの三日月に恋するかもしれない」
「ふうん」

 三日月は一瞬不快そうに眉をひそめた。しかし、弥生の期待が見せた幻かもしれない。

「あんたも恋をしたら変わるのかしら?」
「おれが?」
「そうよ。想像してみて」

 三日月は窓辺にひじをついて遠くを見た。

「わからないな。だが、相手を守ってやりたくなるだろう。そしていつか、独占したくなる……」
「とってもフツーね」
「フツーか?」
「当たり前よ!」

 弥生は身を乗り出し、三日月の切れた唇に触れた。カサブタが赤く盛り上がっている。そして見えない場所にも彼の身体にはうちみやひっかき傷が沢山あるのだ。
 弥生は親指でカサブタになぞり、自分に言い聞かせた。

――もう誰にも傷つけさせない。三日月がわたしを守ってくれたように、わたしも彼を守ろう……。

 そこで顔をあげ、三日月がこちらを見下ろしていたことに気づいた。サッシにひじをつき、少し首を傾げた体勢で甘やかに微笑んでいた。

「三日月……?」

 沈黙。
 彼は弥生を静かに見つめていた。

「三日月ったら!」
「ああ」

 三日月は我に返ったように瞬きした。

「考えごとをしていた」
「――そろそろ次の駅に着くみたいよ」

 弥生は赤くなった頬を誤魔化すため、後ろのドアをふり返った。すると、いくつか離れた席にさっき出て行ったはずの少年たちが座っているのが見えた。彼らは卑しい笑みを浮かべ、二人を観察している風だった。

「あいつら……」
「やめておけ」
「でも、きっとなにか企んでいるのよ」
「だいじょうぶ。なにも心配いらない」

 三日月は本気でそう言っていた。弥生は彼の落ち着き払った瞳をのぞきこみ、それが虚勢ではないことを確認した。そして彼自身、本当にだいじょうぶだと言うことをすぐ証明してみせた。

 電車が止まり、アナウンスが流れた。しばらくの間、この駅で停車するというものだ。三日月はなんでもない顔で立ちあがった。

「どこへ行くの?」
「手洗いに」

 いたずらっぽい微笑み。

「心細いならついて来るか?」
「行かないわよ!」

 彼は弥生の髪に口づけし、外へ出て行った。後ろの少年たちもすぐ三日月を追いかけた。
 一分、三分、五分……ときが進むにつれ、不安はどんどん膨らんでいった。

――やっぱりついて行くべきだったんだわ。

 傷つき、半裸で倒れていた三日月が目の裏に蘇る。弥生がついに席を立ったとき、紺色のダッフルコートが見えた。両手に湯気の出る紙コップを持ち、微笑する。

「遅くなった。見知らぬ女子に話しかけられてな、もらった」
「あいつらは……」

 弥生は荷物が置きっぱなしの後部座席をふり返り、三日月を見つめた。ケガひとつない姿。

「ならいいの――ありがとう。うれしいわ」
「どういたしまして」

 発車ベルが鳴り響き、電車がゆっくり動き出した。結局少年たちは戻って来なかったが、三日月とのおしゃべりに夢中だった弥生はそのことに気づかなかった。
 もちろん、彼のコートに真新しい血痕がついていることも……。


 弥生は旅館の窓ぎわに座り、遠く打ちあがる花火を眺めていた。日が暮れ、群青色に染まった海は弥生の知るものと少しちがっていた。

「海がそれほど珍しいか?」

 三日月が観光用パンフレットから顔をあげ、弥生を見つめた。

「そういうわけじゃないの。地元は海に面しているから、むしろ身近だわ」
「ではなぜ?」
「海の色がちがうから。本当に遠くに来たんだって実感したのよ」
「海だけではない。近くに珍しい形の岩がそびえているらしいぞ。明日はそこに行こう!」
「願いを叶えてくれてありがとう……でも、つぎは三日月の番」
「おれの?」

 弥生はやにわに立ち上がると、蛍光灯のスイッチを入れた。ワンピースを来た少女の影が畳に伸びた。しかし、三日月はちがった。申し訳程度にうっすらした靄が見えるだけだ。弥生は悲しそうに彼の手を握った。

「正直にこたえて。大変なことが起きているのよね」
「穢れがうまく祓えないだけだ」
「つまり、このままじゃ消えちゃうんでしょ?」

 弥生は唇をかんだ。

「そうだ! あのときみたいにわたしに移すことはできない?」
「やめておけ。昨日とはまるでちがう――地獄のような苦痛を味わうことになるぞ」
「わたしなら平気」
「願いを叶えた恩義なら、感じなくていい」
「ちがうわよ。鈍感!」

 弥生は思わず三日月の手をつねってしまった。そして彼の瞳をのぞき見た。弥生を守ってくれた特別な青年……彼のためにどれほどのことがやれるだろうと考え、なんだってできることに気づいた。

「一度しか言わないからよく聞いて」

 少しの間。

「わたしは三日月が好きよ。恋をしているの。だから、あなたを守るためなら何も恐ろしくないわ」
「おれが消えれば、すぐ代わりが生まれる。主は次の三日月宗近を愛せばいい」
「本当にそうしていいの? わたしが他の三日月を好きになっても構わない?」
「主の自由だ」
「ウソツキ」

 窓の外で、ひときわ大きい花火が打ちあがった。光の筋が毛筆画のように長く伸び、やがて消えていった。

「わたしを使いなさい。あんたのものなんだから、好きにしていいの」
「……弥生」

 三日月は深いため息を吐いたようだった。しかし、意外なほど強い力が彼女を引き寄せ、自分の上体にもたれかからせた。乾いた親指であごをすくい、唇を重ねて吸った。舌を割り入れ、だ液を流しこむと粘膜をすり合わせた。

 弥生が絹を裂くような悲鳴をあげた。思い切り背筋をそらし、ほっそりした首に太い蛇のような痣が浮き出てくる。三日月はひざのうえでもがき苦しむ少女を見つめ、にっこりほほ笑んだ。

 夜。
 真っ暗な和室に一枚の木の葉が舞いこんだ。それは床に落ちる直前にかき消え、からし色の着物を着た男がゆっくり舞い降りた。赤い瞳に白い長髪、一部の髪束が獣の耳のように立っている。
 彼は和室を見回し、少女を抱きかかえた三日月を見ると眉をひそめた。

「おい、三日月。本体を放り出して何をやっておった」
「おお、小狐丸。息災だったか」
「相変わらず食えない男よ。それよりこなた、ひどい穢れじゃ。身を清め、疾く力を引き継げ」
「断る」

 小狐丸は一瞬、自分の耳を疑った。しかし、いつまで経っても三日月は訂正せず穏やかに微笑んでいるのだった。

「己がなにを言っているかわかっておるのか?」
「もちろん。次代へは記憶の継承が為される。おれはだれともこの女を共有しない。この記憶はおれだけのものだ」
「その娘、じき死ぬぞ。こなたの穢れはただ人には強すぎる」

 弥生があえぐような悲鳴をあげた。雪のような肌は肉色の痣で爛れ、醜く引き攣れている。それでも三日月は額にかかった髪を払い、慈しむように口づけしてやった。

「そなた、まさか……」

 小狐が戦慄して後ずさった。

「おれのものだ。他の男には渡さぬ」
「――浅ましい性根よ」
「すまんな。つぎのおれは真っ当だとよい」

 そう言うや否や、部屋じゅうが青い炎に包まれた。火が曼荼羅模様のように燃え広がり、小狐丸を遠ざけた。中心では、三日月が苦しむ少女を愛で続けている。

 やがて、炎に呑みこまれた柱が倒れ、二人の姿を隠した。しかし、小狐丸には、炎のなか、彼らがいつまでも寄り添っているように思えたのだった……。