深夜。
本丸の廊下を白衣の少年が歩いていた。片手に小さな燭台を持ち、縁側を照らすと悪戯っぽく笑った。
「こいつは大きいネズミだな」
「バレてしまっては仕方ない」
一期一振はわざとらしいしかめ面をして言った。彼の横には透明な硝子瓶とお猪口が置いてある。縁側から望める日本庭園では、青白い光があちこちに飛んでいた。
「蛍か。きれいなもんだな」
「そうだね」
居心地のいい沈黙。
薬研はお猪口に酒を注ぐと、一口で飲んだ。
「今日は、ずいぶん活躍したって聞いたぜ」
「主が? わたしは、一生分頭を下げた気がするよ」
「つまり、とても人間らしい一日だったという訳だ!」
「兄をからかうんじゃない」
一期がうんざりした顔で眉間の皺をもんだ。
「悪い。でも、大将も落ち着いたら謝りにくると思うぜ」
「期待しておくよ……」
「本当に行くってば」
「悪いけど、わたしには何故お前が彼女の肩を持つのか理解できない。好きなのかい?」
「好き?」
薬研は思ってもみないことを言われたという顔をした。
「そりゃあそうだ。本丸の刀剣はみんな大将が好きさ。当たり前だろ」
「なるほど……」
しかし、一期は審神者のどこにそんな魅力があるか理解できなかった。彼女は、怒りっぽくて我がままな子どもにしか見えないのだ。薬研は不満そうな一期を見て、ため息を吐いた。
「いち兄は、どうして大将が大枚はたいて、あんたを求めたと思う?」
「さあ。太刀が欲しかったのだろう」
「ちがうね。五虎退のためさ。あいつがいち兄に会いたいって泣いたから、大将は兄弟をそろえてやったんだ」
「何故?」
一期は混乱して口ごもった。
「理由がない」
「『家族は一緒にいるべき』だと。おれは、大将のそういうところが気に入ってるんだ」
一期は弟の力強い視線に圧されて目を伏せた。傍らに置いたロウソクの火が風に揺れた。彼は一瞬息をのんだが、怯える気持ちを押し殺し、懐中電灯を差し出した。
「どこにあった?」
「酒を探しているとき“きっちん”で見つけたんだよ。燃えずに辺りを照らす絡繰りだ。お前はこちらを使いなさい」
「いいのか……?」
それは多くの問いを含んだ質問だった。しかし、一期はわざと気づかないふりをして微笑んだ。
「いいんだ。わたしは兄だから、こわいものなんて一つもないんだよ」
「――そうか。ありがとよ」
薬研は悲しみと諦めが交ざった表情でうなずき、懐中電灯を受け取った。そして、一期よりずっと慣れた手つきで電源を入れると廊下の奥へ去って行った。
しかし、途中で振り返り、からかうような笑みを浮かべた。
「実はな、これ、大将がおれっちのために用意してくれたんだぜ」
薬研は、兄の間の抜けた顔に満足したようだった。小さな背中は、すぐ闇に紛れて見えなくなった。
一期は茫然と弟が消えたほうを見つめていた。しかし、炎の弾ける音を聞くと背筋を震わせ、咄嗟に火を握りつぶしてしまった。彼の顔は恐怖で歪み、薬研よりよほど火を恐れているようだった。
本丸の居間で、真っ赤なリボンがトレードマークの少女がひざを抱えて座っていた。丸く膨らんだ袖に襟ぐりが大きく開いたデザイン。そして、胸元にレースをあしらった白いワンピースが審神者の寝間着だった。
彼女は唇をとがらせて、TVの前ではしゃぐ粟田口兄弟を見つめた。厚が乱の頭をこずき、彼が怒って手をあげると笑い声をあげた。他の兄弟も二人の喧嘩になれているらしく、最初のうち諌めていた平野も結局、親しみがこもった笑みを浮かべた。
少女はその光景から無理やり目をそらした。彼らが自分を慕ってくれているのはよく理解しているが、やはり兄弟の絆には勝てないと思ったのだ。
しかし、今日に限って彼らの口喧嘩はますます勢いが増していった。
テーブルに置いた紙を叩きながら、厚がかみついた。
「今度は、おれが特上投石を使う番だろ!」
「やだよ。厚ったらすぐ壊すんだもん」
「五虎退よりはマシだ。それに、お前よりおれのほうが練度が高いんだからな」
「だからなに?」
乱が鬱陶しそうに長髪をかきあげた。
「ボクがいなかったら、この間の演練だって勝てなかったよ」
「生意気だぞ。今度、厚樫山に放りこんでやろうか。これだけ兄弟がいるんだ。ひとりくらいいなくなっても構うもんか!」
「冗談じゃないわ!」
審神者は思わず立ち上がってさけんだ。
「いい加減にして。これ以上ひどい言葉を聞きたくない」
「ひどい言葉?」
「どうして、自分の兄弟にいなくなっていいなんて言えるの?」
「べつに本気じゃないってば。本当にそうなれとは思っちゃいねえよ」
「当たり前でしょ。本気で言っていたら、軽蔑するわ」
そして、静かな口調でつけ加えた。
「自分を見捨てない人がそばにいるのが、どれほど素敵か、わかってないのね」
沈黙。
厚は皆の前で叱られたことに頬を赤く染めた。
「でも、大将はお金持ちで一人っ子のお嬢さまじゃないか」
「そんなこと何にもならないわよ! 厚は、お金なんかよりずっと幸せになれるものを持ってるじゃない! 家族とか友だちとか……」
「大将……」
「わたしだって、そっちのがずっと欲しかった!」
そのとき、風呂上りの一期が暖簾をあげて入って来た。
「みんな、もう寝る時間だよ――なにかあったのですか?」
「なにもないわ」
少女は早口で言うと、うつむいて居間を飛び出してしまった。自分の弱さをさらけ出してしまったことが、情けなくて仕方なかった。
懐中電灯で屋根を照らすと、赤いリボンの少女が棟の部分に足を抱えて座っていた。一期は安堵の息を吐き、隣りにしゃがみこんだ。
「なにか用?」
「泣いていらっしゃらないのですね」
「泣いてどうなるの?」
少女がさも当たり前のように言うので、一期は一瞬眉をひそめた。しかし、すぐそれを愛想笑いの下に隠した。
「率直に言うと、わたしは、泣いている主を慰めに参ったのです」
「いらないわ。審神者のお役目は“守る”ことだもの」
「だから?」
「だから、すぐ泣いたり、こわがったりする弱虫はだれも守れないってこと!」
一期は虚をつかれた顔をした。そこで少女の顔をじっと見つめ、彼女の本心を探ろうとした。しばらくののち、彼は弟にするように審神者の頭を撫でてやった。黄金色の瞳には、あたたかな共感の光が宿っていた。
「わかりますよ。だれかを守るためには、何も恐れるべきではない。けれど、わたしは刀なので、あなたに守ってもらう必要はありません」
「それって、詭弁じゃない?」
「まさか。人々を守る審神者を守ることも、我々の大事なお役目です」
「一期ったら!」
少女はこらえ切れないように吹き出した。子どもっぽいくすくす笑い。やがて、笑いの発作がやむと、彼女は一期が初めて見る安らかな笑みを浮かべた。
「こういうとき、なんて言えばいいのかしら……だれかに慰めてもらえるなんて、初めてでよくわからないの。ええと、そう」
少女は恥ずかしそうに笑った。
「ありがとう」
月の光が、審神者の顔を可愛らしく照らしていた。一期は少女の小ぶりな舌が唇を湿らすところから素早く目をそらした。まるでオナニーを覚えたての少年のように、その光景がひどくいやらしく思えたのだ。
一期は、彼女のほうに向いてしまいそうな視線を眼下の景色に集中させた。夏の夜特有のねっとりした闇。それを裂くように一階からオレンジ色の灯りが漏れ出ている。遠くには濃紺色の太い川が望め、漁船の火がポツリポツリと光っていた。
少女もしばらくそれらを眺めていたが、やがて覚悟を決めたようにつぶやいた。
「厚は悪くないわ。わたしが八つ当たりをしたの」
「八つ当たり?」
「そう。わたしが、いくら欲しがっても手に入れられないものを持っているから。羨ましかった」
「ご両親とうまくいっていないのですか?」
「全然。うちは商業の傍ら、だいだい海軍省の大臣をやっているんだけど、お母さんはわたしを生んでから、子どもが作れなくなっちゃったの。でも、わたしは女の子だし、軍部に行く才能がなかった。それだけでなく、犬猿の仲の神秘部から審神者として徴収された恥さらしってわけ」
「実家とご連絡は?」
審神者は首を振った。そして、小さな声で続けた。
「小さい頃、どんなに頑張ってもお母さんはわたしを見てくれなかった。友だちもいなかった。でも、お金があればちがうの。お金を利用すれば、友だちなんていくらでもつくれるのよ」
「でも、あなたはそれが偽りだと知っているはずだ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
少女は真っ赤な目で一期をにらんだ。
「家族とさえ上手くやれないのに、友だちの作り方なんて余計知らないわよ!」
彼女はいままでの鬱憤を晴らすように一期の胸をたたいた。それはまるで追い詰められた小動物の反撃のようで、一期は薬研の言いたかったことをようやく理解した。彼は低いシーッという声を出しながら、小さな背中をさすってやった。
「だいじょうぶ。主には友だちがいるはずです」
「だれ? 見えないお友だちかしら?」
「いいえ――わたしです」
「一期?」
少女は混乱した表情で一期を見上げた。
「本当に?」
「ええ」
そのとたん、彼女は隠しきれない喜びで顔を赤らめた。しかし、必死にそれを隠そうとえらそうな態度を取った。
「あなたって、主人に対してなんて失礼なのかしら」
「では、友だちではないのですか?」
「一期がどうしてもっていうなら……」
小さく首を振る。
「そうじゃないわね。つまり、わたしがあなたとそうなれたらいいなあと思うの――どうか、友だちになって下さい」
「はい。よくできました」
一期が微笑むと、木の枝のように細腕が背中に回り、強い力で縋りついてきた。肩口が瞬く間に濡れて冷たくなったが、一期は少女を離したりしなかった。それから長い間、二人の影は一つの生き物のように繋がっていた。
「友だちに、とっておきの秘密を打ち明けるわ」
しばらくののち、少女がくぐもった声で言った。
「一期を呼んだのは、二つ理由があるの。一つ目が一番の理由だけど、もう一つは、太刀――大人に守ってほしかったから……ごめんなさい」
「気になさいますな」
一期は本心から言った。
「粟田口は忠義の刀。主君を守るための刀なのです」
「ありがとう」
少女は顔をあげて微笑んだ。涙のせいで目蓋が腫れ、頬は火照って真っ赤だった。それはもちろんお世辞にも美しいとは言えない。しかし、不思議なことに一期には、彼女が飛び切りかわいらしく思えた。