朝。
あくびをしながら降りてきた乱は、長テーブルの先客に気づいて目を丸くした。あの鶴丸国永が上品だが、ものすごい早さで出し巻き卵や鮭の塩焼きを口に放りこんでいく。
「乱ちゃん、ご飯どのくらい?」
「少なめでお願い」
審神者が調理場に下がるのを見送り、乱は彼の正面にひじをついて座った。
「最初にここに来るのが鶴丸さんだなんて思わなかったよ。惚れちゃった?」
「ばかいうな」
鶴丸は空の茶碗を置きながら、こちらをにらみつけた。
「おれが惚れた女は、あとにも先にも主だけだ」
「じゃあどういう心境の変化なのさ。彼女を追いだすんじゃなかったの?」
「もちろんそのつもりだったぜ。でも……」
彼は、憂い顔で朝日がさんさんと差しこんでくる窓を見上げた。
「おれは自分の悲しみにひたるだけで、何も見ていなかった。前に来たっていう審神者も全く覚えてないんだ。なんというか、それは“ふぇあ”じゃないだろ」
「ふぇあじゃない?」
「卑怯ってことだ。だから、あのチビはちゃんと見極める。万一、彼女の後継に相応しくないと判断したら……悪いな。きみたちと心中だ」
「わかった」
乱はにやにや笑って、箸で鶴丸を指した。
「じゃあ、いまのところ、あの子を認めてるってことだ!」
「乱。指し箸はやめろ」
「図星だからって、誤魔化さないでよ」
「誤魔化してない。そもそもお前はいつも、にぎり箸やらわたし箸やら行儀が悪いんだ」
「だからなに? 鶴丸こそ御物だからって上品ぶって。ボクはかわいいから、箸が上手く握れないのも立派なステータスなの!」
「きみはそれでいいかもしれないが、男士の代わりに恥をかくのは審神者だぞ」
乱が大きく目を見開いた。そして、目を伏せ低い声でつぶやいた。
「ごめん」
「――ああ」
「乱ちゃん、ご飯持ってきたよ!」
そのとき、折よく審神者がお櫃を抱えて広間に戻ってきた。彼女は場に漂う気まずい雰囲気に首を傾げた。
鶴丸は眉間にしわを寄せてみそ汁をすすっているし、乱は捨てられた犬のような顔でうつむいている。
「ええと……どうかした?」
「べつに」
乱はぷいっと横を向いたが、持て余すように箸をいじっているのを見て、少女は何が起きたかだいたい把握してしまった。彼女はお櫃をテーブルに置くと乱の手を励ますように握った。
「鶴丸さんは律儀というか、優しいもんね」
「おれが?」
「だって、わたしがきらいでも挨拶はきちんと返してくれたでしょ。それに昨晩だって結局一緒に眠ってくれたし……」
「一緒に寝た!?」
乱が一気に元気を取り戻し、輝く目で鶴丸を見た。
「やっぱり好きなんじゃん!」
「それは――とんでもない――誤解だ!」
鶴丸が思わず頭を抱えたとき、壁の柱時計が風情ある音で鳴った。九時になったのだ。
審神者は大騒ぎする二人から目をそらして、空の三席を見つめた。自分が来てから、例の三人がなにか食べているのを見たことがなかった。
三日月は調理場にいたので食べる意志があるとして、加州と大和守はどうなのだろう。少女はそのことについて考えると、不安でたまらなくなった。
「ねえ、二人とも。加州くんたちがご飯どうしてるか知ってる?」
審神者が尋ねると、乱があっけらかんとこたえた。
「さあ。食べてないんじゃない」
「だろうな。まあ、ぶっ倒れる前に大和守が調達に来るさ」
「待って」
少女の顔が瞬く間に蒼ざめた。
「つまり……つまり、それはロクにご飯も食べてないってこと?」
「そりゃあそうだろう。厨はああだし、おれもきみが来るまでほぼ水で過ごしてたぜ」
「ボクも!」
「おかわり」
ずいっと差し出された茶碗に白米を山盛りよそいながら、少女はひどい頭痛を感じていた。
(まさか本当に食べていなかったなんて……)
彼女はしばらく二人がおいしそうに皿を空にしていくのを見つめていたが、やがて決意したように席を立ち、足音荒く階段を上っていった。
「あの子、意外とタフだよね」
「ああいうのは図太いっていうんだぜ」
鶴丸と乱は顔を見合わせて、ニヤリと笑った。
小さな審神者の大奮闘のすえ、ゲッソリした加州たちが広間に並んで立っていた。
少女は席について食べるよう勧めたのだが、それなら立っていたほうが百倍マシという加州の主張のせいで棒立ちになっているのだ。こころなしか、大和守がうんざりした目で彼を見ていた。
「ええと、無理やり連れてきてごめん」
少女は気まずそうな顔で加州のごちゃごちゃに絡まった髪を見た。
「ホントだよ! とつぜん主の部屋に入って来るやいなや、ここへ引っ張ってくるんだから。おかげでいまのおれ、全然かわいくない!」
「いつもと同じに見えるけど」
「美的感覚が死滅してるヤツは黙ってて!」
審神者はいがみ合う二人をなだめるため、できるだけ明るい口調で話しかけた。
「わたしが呼んだのは、本丸――家族でちゃんとご飯を食べようって提案しに来たの。朝はいらないかもしれないけど、せめて一日一食は食べなくちゃ」
「いらない」
加州がすばやくかみついた。
「本当にそう思う? いまは確かにそれでいいかもしれない。でも、いつなにが起きるかわからないよ。そのとき、お腹が減って戦えなかったらどうするの?」
「おれは戦う。こんなぬるま湯みたいな時間、無駄だよ」
「無駄じゃない。わたしは加州くんたちの仲間――家族になりたいんだから」
「家族?」
加州が鼻で嗤った。
「あのひとになり替わるつもり? 主の場所を取る気なんだ」
「そうじゃない。そういう意味じゃないんだよ……」
「清光」
大和守がなだめるように彼の背中をたたいた。それから、憂いと諦めを含んだ顔で審神者を見た。
「お前は残酷だよ」
彼は壁紙にもたれかかり、ゆっくりした口調で続けた。
「清光には悪いけど、ぼくは本丸の刀解を望んでない。お前が悪い人間じゃないってこともわかる。ただ、まだ混乱してるんだ。審神者に戦を望まれれば、ぼくらはひとの身を忘れ、存分に刀でいられる。ひとの苦しみを忘れることができる。でも、お前はあのひとと同じことを言って、同じことをしようとする。いまは、それが身を切るよりつらい。温かい時間なんて、いまの清光は――ぼくだって求めていないんだよ」
「それじゃあ、いつか折れちゃうよ」
「刀は折れるものだよ」
大和守は穏やかな顔で微笑んだ。だから、審神者はその本心を正確に読み取ってしまった。彼も無意識かもしれないが、そう望んでいるのだ。
少女は困惑しきった顔で、加州たちを何度も見比べた。なにかいい言葉をかけようとしたが、舌がからまるようになって、結局うつむくことしかできなかった。
「清光が飢え死にしそうになったら、また来るね」
最後に冗談を言い、大和守は加州を引っ張るようにして階上に去っていった。階段の軋む音が途切れ、遠くでドアが閉まる悲鳴のような音が響く。
少女はその場で頭を抱えた。どうするのが正解か、わからなくなってしまった。
「チビ、おかわり」
「鶴丸さん。お願いだから、もうちょっと空気を読んで……!」
審神者は思わず肩を落とした。しかし、少し救われたのも事実だ。
いつの間にか乱がいなくなっていて、広間には鶴丸と二人きり。
彼女はため息を吐いて、カレー風味の卵焼きをおまけしてやった。ついでに自分用に配膳して、彼の正面に腰かける。向かい合ったまま、ご飯を咀嚼したり、みそ汁をすすったりするだけの時間が続いた。
「わたしの方法、間違ってるのかなあ」
茶碗が半分ほど空になった頃、ようやく少女がつぶやいた。
「さあ」
鶴丸は一瞬こちらを見て、すぐ興味なさげに目をそらした。
「ただ、加州はきみのせいで、主を忘れないかと怖れているのさ」
「鶴丸さんもそう思う?」
「おれが彼女を忘れるって?」
不愉快そうに鼻を鳴らす。
「ありえない」
「うん。わたしも忘れてほしくない。あなたたちは、お姉ちゃんの愛する家族だもん」
少女は自分の考えをまとめるように早口で続けた。
「でも、加州くんの気持ちもよくわかるんだ。忘れたくない気持ちは一緒のはずだから。わかってもらえるよう、もう一度よく話し合ってみる」
「はいはい。頑張れよ」
少女はおざなりな口調に眉を寄せた。だが、すぐあくどい笑みを浮かべ鶴丸に近づく。
「そういうわけで、鶴丸さんもわたしを妹だと思っていいからね」
「なんだって?」
「昨日も言ったけど、お姉ちゃんの家族はわたしの家族だよ。だから、恥ずかしがらずにわたしを妹って呼んでいいの」
「こんなへちゃむくれ、お断りだ!」
「お兄ちゃんったら、ひどい」
あえて強調して呼ぶと本気でゾッとしたようだった。鳥肌が立つ腕を擦り合わせ、こちらをにらみつける。少女はそれを見て、声をあげて笑った。
部屋の扉をだれかがたたいた。
一人掛けのソファで三角座りしていた加州は大きく肩を震わせた。
頼りの大和守はちょうど手洗いに出ている。彼はなにも聞こえなかったフリをして、目をそらした。しかし、ノックの音は定期的に響いてくる。結局、彼はしぶしぶ扉を開けに向かった。
意外なことに、そこにいたのは加州の想像した人物ではなかった。相変わらず穏やかな笑みを浮かべた三日月宗近が、手を振って立っていたのだ。
「三日月さん、なにヘンなもの食ってるの?」
加州は半眼になって彼が抱えているビンを見つめた。フタは青くて、なかに茶色いペーストがつまっている。三日月はそれにサジをつっこみ、小腹が減ったとき舐めているようだった。
「ヘンなものではない。ぴーなっつ・ばたあという渡来品だ」
三日月が心なし胸を張った。
「あっそ。ヘンな名前――それより何の用? いくらお前でも主の部屋には入れてあげないよ」
「いいぞ。気持ちはわかる」
「ちょっと! なでないでよ」
しかし、三日月は加州の抵抗をものともせず、優しい手つきで頭をなで続ける。やがて、加州は振り払うのをやめてしまった。疲れたのもあるが、それ以上にそんな風に優しく触れられるのが、久しぶりだったからだ。
おずおず見上げると三日月は鷹揚な笑みを返してくれた。それは、加州の目にひどく頼もしく映った。
「おれ、あの子どもがこわいよ。全部変わってしまいそうだから……」
彼はうつむいて自分の本心をのぞかせた。
「だが、全てのものは移りゆく。古きものは忘れ去られて当然さ」
「――それ、主のことを言ってる?」
加州が目を丸くした。
「そうでもあるし、そうではない。ただ、いつまでも意地を張るなということだ。鶴丸と乱は、彼女を受け入れたぞ」
「鶴丸が!?」
彼は目の前が真っ暗になった。
「そんなはずないよ。だって、あいつは主が好きだったのに……」
「好きだからといって、受け入れない理由にはならぬ。そのうち、主のことをだれも話さなくなる日が来るかもなあ。それも仕方ない。加州、わきまえろよ」
「なに言ってるの? そんなの主への裏切りじゃん」
加州は三日月の手を払い、彼をにらみつけた。
「おれは、ぜったい忘れない!」
張り詰めるような沈黙。
三日月は悲しげな顔で加州を見つめていた。彼の瞳を見ると、言いようのない不安が胸に渦巻いてくる。加州は主にかけてもらった優しい言葉を必死に思い出そうとした。しかし、それがどんな声だったかさえ、覚えていなかった。
加州はパニックを起こして、三日月を突き飛ばした。とにかく、主を思い出せる場所に行きたかった。
「主の好きな薫衣草が、見ごろだぞ」
穏やかな声が背中に投げかけられる。しかし、加州は振り向かなかった。もう自分のことだけで精いっぱいだった。
駆け去っていく加州を見送ると、三日月の顔から表情が一気に抜け落ちた。
彼は堂々とした足取りで主の部屋に入っていくと黒檀製の古びた机にそっと触れた。表面に細かな傷がいくつか残っている。三日月は、その傷さえ愛おしいというように人さし指でなぞった。
しばらく、そんな風に思い出に浸っていた。しかし、やがて指を滑らせると机の引き出しを順番に開け始めた。
一番目に目当てのものはない。二番目もすぐ閉めた。三番目は――
三日月は親指と人さし指で、それをつまみ上げた。窓辺に寄り掛かって、書類を読み始める。三日月の眉間に、小さなしわが寄った。彼はしばらく逡巡したあと、それを半分に折って、懐にしまいこむ。
そして、他の誰にも見つからないうちに、主の部屋を抜け出したのだった。